巨人「地獄の伊東キャンプ」とは何だったのか 巧打者・篠塚氏が明かす“意義”

巨人OB・篠塚和典氏【写真:荒川祐史】

1979年の伝説の秋季キャンプ、選手たちは何を考えて臨んでいたのか

 1980年代の巨人打線を類まれな打撃センスで牽引した篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。1975年のドラフト1位で銚子商から入団し、1994年限りで現役を引退するまで通算1696安打を記録。名球会入りはならなかったが、球史に名を残す巧打者として高く評価され、絶大な人気を誇った。

 Full-Countでは、天才打者が現役時代の名場面を振り返る連載「篠塚和典、あの時」を掲載中。第2回は、篠塚氏もプロ入り4年目のオフに参加した1979年の「地獄の伊東キャンプ」。その後の活躍の“原点“となった厳しい合宿とは、どのようなものだったのか。

 今でも語り継がれる「伊東キャンプ」。同年5位からの逆襲を目指していた巨人の中で、指名された18人の有望株が、長嶋茂雄監督(当時)らによってみっちりと鍛え上げられた秋季トレーニングのことである。もっとも、これが43年ぶりに行われた秋季キャンプとあって、選手も初めは“戦々恐々”だったという。篠塚氏は振り返る。

「確かに、キツいと言ってもどんなものがわからなかったんです、最初は。秋季キャンプなんて、それまでやったことがなかったので。どういうものをやるのかなという不安は最初はありましたよ。ジャイアンツに入団する時と一緒で。。内容が分からないので、イヤだな、という思いもありました。期間は決まっていたので、それに脱落しないようにという思いが強かったと思いますね」

 実際の練習はどうだったのか。篠塚氏は「全部きつかったよ」と笑顔で振り返る。

「ティー(打撃)なんかも、連続でやるのに1個のカゴに大体120球が入ってる。最終的には、それを続けて打てるように、ということでした。でも、なかなか最初は…。バットも重い、1キロちょっとあるやつで振っていたから。最初は1箱打つのは大変でした」

「『俺たちがやっていくんだ』という思いが強くなった」

 それでも、「一番楽なのは打っている時。バッティングのほうが楽だった」という。「空き時間があるからね。自分のペースで打てますから。だから、守備とランニング、それが一番嫌だった」。当時は、2時間連続でノックが行われたことなども話題となったが、「声も出なかったですよ。みんな話す元気もない。(練習後は)『話しかけんな』という、そんな感じの雰囲気もありましたよ」と篠塚氏は振り返る。

 一方で、18人のメンバーに選ばれたことは意気に感じていた。

「(参加したのは)昭和50年(1975年)くらいに入った定岡(正二)さんとかの、その後の選手ですよね。51~54年(1976~79年)の4年間で、いけそうなものがあるのかなというのを長嶋監督は感じたと思います。ここでやれば、何とかキャンプで選手が乗り越えられれば、この選手たちはいけるんじゃないかという思いは監督にあったのかなという感じはします。

 伊東キャンプは脱落者が誰もいなかったということで、やっぱり体が資本だから、体が強いんだというのを見せつけてやったという、そんな感じがありました。ピッチャーを入れて18人。その18人というのは、より一層、『俺たちがやっていくんだ』という思いが強くなったと思います。ミスターにも、『こいつらやってくれるんじゃないかな』という思いを我々はさせたんじゃないかなと。結果が出るのは2年、3年たってからだろうな、というのはありましたけど、その通りになっていきましたからね」

 巨人は1965年から1973年にかけて、伝説のV9を達成。しかし、1974年は2位に終わり、長嶋氏はその年限りでの現役引退を表明した。監督に就任し、76、77年はリーグ優勝を果たしたものの、セ・リーグで下位に低迷する年もあり、日本一に輝くこともできなかった。

 巨人がまさに過渡期を迎えている中、長嶋監督はV9時代を知らない若手を「シンデレラ・ボーイ」と“命名”。伊東キャンプに参加した18人は、篠塚氏の他に江川卓、西本聖、角三男、藤城和明、鹿取義隆、赤嶺賢勇、山倉和博、笠間雄二、中畑清、淡口憲治、松本匡史、平田薫、山本功児、中司得三、河埜和正、中井康之、二宮至というメンバーで、のちにスターとなった選手も多く含まれていた。まさに重要な意味を持つキャンプだった。

心に穴が空いた1980年の長嶋監督退任、その翌年の日本一

 篠塚氏は言う。

「やっぱり他の球団とかとは違う環境。王(貞治)さんはまだいたけど、長嶋さんが抜けて、その後、V9の人が抜けていって、最終的に王さんがいなくなったら、この後のジャイアンツは大丈夫かなと。みんなそういう不安を持ちながらやっていたと思うんです。結局、伊東キャンプをやっても結果を出さないといけない。個人個人の不安もあったと思います。ただ、ちょうど入れ替わりの時期というのがあったから、長嶋監督も若い選手を(伊東キャンプの)次の年から使っていったということで、1980年は選手個人が自信を持った1年だったと思います。

 でも、そこでできそうだなと思ったのに、長嶋監督は(退任して)いなくなってしまった。選手は個人個人でいろんな思いがあったと思うし、これだけやってもらった監督、コーチもそうだけど、いなくなってしまったとなると、(1980年シーズン終了後は)次の春季キャンプまでの間に野球をやろうという気持ちが最初はあまりなかったですね。長嶋監督が辞められて、次の年のキャンプまでの間が一番きつかったかなと。どうしたらいいのかなと。藤田(元司)さんも監督初めてだし、コーチも色んな人がくるけど初めてだし。また雰囲気が変わってしまうかなと。

 でも、そう思いながらも、実際に次の年のキャンプが始まるまでにはいろいろ考えて、やっぱり結果を出さなきゃいけないという気持ちになりました。結果を出すことで、長嶋さんという人が浮かび上がってくるわけですから。だから、(伊東キャンプに参加した)18人全員が1軍でできたわけじゃないけど、1軍でやっていけた選手というのは結果を残して、キャンプは間違いじゃなかったというのをやっぱり見せてやろうと」

 巨人は翌1981年、8年ぶりの日本一に輝く。篠塚氏は開幕当初はルーキーの原辰徳氏に二塁のレギュラーを譲ったものの、中畑氏の負傷で原氏が三塁に回ったことで、定位置を確保。そこから打ちまくり、打率.357でシーズンを終えた。最終的には首位打者を阪神の藤田平氏(.358)に譲ったものの、篠塚氏はハイレベルな争いでその実力を証明した形となり、長嶋監督への恩返しの第一歩を刻んだ1年でもあった。

(盆子原浩二 / Koji Bonkobara)

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