なお残る差別 「閨秀」から「女流」「女性」へ

By 江刺昭子

 「女装文体」で書いた樋口一葉

 どこの町にも一つや二つはあって、風景の中に自然に溶け込んでいた本屋さんがネット書店の勢いに押されて、姿を消していく。わたしはリアル書店に生き残ってほしいから、少し遠いけれど大型書店まで足を延ばす。

 文芸書の棚を眺めていて、おやと思った。男女の作家の棚が区別してあるのに、女性作家の作品が男性作家の棚に、その逆もあったりする。男女の区別のつきにくい名前が多くなったせいもあるが、女性作家の側で意識的に男性名とも思えるようなペンネームをつけている人がいる。桐野夏生、山本文緒、篠原一、恩田陸、桜庭一樹、井上荒野、島本理生、木内昇らで、コミック分野はさらに多い。

 なぜ、彼女たちは男性名を名乗るのか。〇〇子だとすぐに女の作家だとわかって、それだけで判断されるのが嫌であいまいな名前にした、自分のイメージは女性的でないといった理由らしい。その背景には、女性作家であるがゆえに、まっとうに評価されなかった時期が長かったということがある。

 わたしが1960年代に学校で習った日本文学史はこうだった。

 近代文学の始まりは、坪内逍遥が『小説神髄』で写実主義を唱え、二葉亭四迷が『浮雲』で言文一致体を実践した。自然主義文学から白樺派へ、近代的な自我意識にめざめた作家たちが、封建的な家や社会の壁といかに闘ったか。でも、それは男性作家ばかりで、女は樋口一葉と与謝野晶子くらい。木村曙(きむら・あけぼの)も田辺花圃(たなべかほ)も清水紫琴(しみず・しきん)も、もう少しあとの時代に活躍する『青鞜』や『女人芸術』系列の女性表現者の名前もほとんど出てこなかった。

 その頃、近現代日本文学の基本テキストを網羅しているとされた岩波文庫の緑色帯にリストアップされていた女性作家は、一葉、野上弥生子、宮本百合子、晶子、岡本かの子、田村俊子のみ。でも、田村俊子の『あきらめ・木乃伊の口紅』が入っていたから、わたしは彼女を卒論のテーマに選んだ。主人公がレズビアンだったり、男と対等に自我を主張したりする。その生き方が、明治末期に書かれたとは思えないほど鮮やかだった。

 戦前、たしかに女性作家は少ないが、まるでいなかったように文学史で無視するのは公平性に欠ける。文学作品を評価するのは、男性評論家であり、男性研究者であり、男性中心の文芸ジャーナリズムだから、男同士で褒めあって自足していたということなのか。

 わずかに認められた女の書き手は「閨秀作家」と呼ばれた。画家や音楽家も必ず「閨秀」という冠がついた。「閨」とは「女性の部屋」や「女性」のことで「閨秀」は優れた女性の意だ。単に「作家」でいいのに「閨秀」を付けたのは、女性は特殊な存在とみなされたからだろう。文学などの芸術活動は本来、男の行為だという意識が前提にある。

 閨秀作家として認められた樋口一葉の文体を「女装文体」だと喝破したのは近代文学研究者の関礼子さん。一葉は師の半井桃水(なからい・とうすい)に、当時はやりの書生文体である言文一致体ではなく、女の書き手にふさわしい、男からみて女らしい文体で書けと指導され、復古調の優美な雅文体、つまり「女装文体」で書いてちやほやされたのだという。

 「青鞜」が突破口になって、次第に女のもの書きが増えた。平塚らいてう、野上弥生子、宮本百合子、吉屋信子、宇野千代、平林たい子、窪川稲子、林芙美子、岡本かの子ら。そうなると閨秀作家は響きが古いからか、「女流作家」という呼称が用いられるようになった。でも、「男流」という対の言葉はないから、「作家」は依然として男性専用なのである。

 昭和初期、窪川稲子が「キャラメル工場から」を発表したとき、新聞に「この小説は女名前だが男であろう」と書かれたが、それは褒め言葉なのだという。田村俊子や岡本かの子が評価されるのは、男には書けない官能描写の場面によってだ。そうでなければ、林芙美子に代表されるように、貧乏や病気に加え男にしくじった体験小説がもてはやされた。

 女性作家自身、日本女流文学者会を作って(36年)、女流文学賞を創設し(46年)、「現代の女流文学」全8巻(74年)を刊行している。丹羽文雄はこの文学集の推薦文に「今日ぐらい百花繚乱と咲きみだれる閨秀作家の時代を知らない」と書いた。70年代まで下っても、閨秀作家は死語になっていない。

 言葉は社会の変化を反映する。女流作家と並行して女性作家が使われるようになるのは90年代。この頃に登場した女性作家たちが、先に挙げたような男性のような名を名乗るのは、女が文学の場でマイノリティであることを自覚してのことであろう。一方でフェミニズム文学批評の立場から文学史の書き換え要求が起こってくる。(女性史研究者・江刺昭子)=続く

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