階級やジャンル越える女性  「冠詞」取り払い評価

By 江刺昭子

「唯だ『人』と名乗るぞよき」と歌った与謝野晶子

 まもなく恒例の芥川賞直木賞の季節がくる。どんな作者と作品にめぐりあえるのかが気になる。というのも、近年の両賞をはじめ、本屋大賞や「このミス」(ブックガイド「このミステリーがすごい!」の略)など文学賞の受賞者の女性比率が高いからだ。

 1935年に創設された芥川・直木賞の女性受賞者は戦前は極端に少なく、男女比は前者が18対2、後者が14対1。戦後も芥川賞は第22回から48回まで13年間、直木賞は24回から38回まで7年間も女性の空白期が続いた。

 80年頃からようやく女性受賞者が目立ち始めたが、メディアは髙樹のぶ子や重兼芳子を「主婦作家」と呼んだ。明治時代に森鷗外の妻の森しげや、夫が帝大教授の大塚楠緒子らが「夫人作家」とくくられたのと同じ発想である。男性にも「サラリーマン作家」という呼称があるが、男女の関係性を表しているわけではない。

 この頃、男性選考委員ばかりの座談会「芥川賞委員はこう考える」(『文学界』1987年2月号)で、開高健があきれる意見を述べている。「まァ近頃おかみさんが自分の体験に寄り添うかたちで小説を書いて、芥川賞をもらうという例が多いんですが…女の方が恨みつらみが激しいんで…だから女の執念でお書きになると、ちょっとした作文であるにせよ、とにかく賞をもらえるものが書ける」

 しかし、この発言から間もない第97回(87年上半期)から両賞と女性作家の関係が大きく様変わりする。女は個性が強くて、これと決めた候補作品については不退転の決意で出てくるからまとまるものもまとまらないといった反対意見がある中で、初めて選考委員に女が入った。芥川賞に大庭みな子と河野多恵子、直木賞に平岩弓枝と田辺聖子で、それぞれ10人中の2人である。受賞者も芥川賞は村田喜代子、直木賞は山田詠美と白石一郎が受賞し、新聞は「オンナ上位の文学界」「男は哀れな時期に」と、やゆ的に報じた。

 87年は、女性文学にとっては地殻変動ともいうべき大きな変化があった年である。人をくったペンネームの吉本ばななが、『キッチン』で性の境界線上をさまよう女装の男を創作して世間を驚かせた。俵万智の『サラダ記念日』がベストセラーになり、短歌の口語化が一気に進んだ。

 性差を基軸に文化を読み直すフェミニズム批評が盛んになったのは90年代。上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子の鼎談(ていだん)『男流文学論』は、文学に「女流」という区分があるなら「男流」があってもいいという逆転の発想で「男流文学」を小気味よく斬りまくった。日本文学の女性研究者の層も厚くなり、埋もれていた女性作家の作品を堀り起こして読み直すジェンダー研究が盛んになった。近代を支配した男たちがつくりあげてきた規範や幻想を問い直す試みである。

 文学だけではない。女性史年表でこの前後のできごとをみると、85年に女子雇用者(1518万人)が専業主婦の数を上回る。86年、男女雇用均等法施行、土井たか子が社会党委員長に就任。87年には子連れ出勤の是非をめぐる「アグネス論争」がメディアを賑わせた。89年には参院選挙で過去最高、女性議員22人が当選し、宇野宗佑首相が愛人問題で辞任に追いこまれた。

 文学の場で女が男を凌駕する勢いは2000年代に入って加速し、かつては皆無に近かった歴史小説やミステリーにも多くの女性作家が進出した。彼女たちは純文学とエンターテインメントといった文学の階級区分やジャンル分けを軽やかに乗り越えて、社会派の骨太な作品を世に問い続けている。

 これらの成果を踏まえ、06年には紫式部から綿矢りさ、金原ひとみまで600人、純文学からサブカルチャーにまで目配りした『日本女性文学大事典』が刊行された。『新編日本女性文学全集』(07~12年)も刊行され、手に入りにくかった作品が一望できるようになった。基本文献がやっと出そろったところで、男の視点ではなく、男女双方の視点で文学を評価して、定番の文学史が書き換えられようとしている。閨秀も、女流も、女性も、すべての冠詞を取りはらった「作家」として評価されるときが来たのである。

 最後に、与謝野晶子の「人ごみの中を行きつつ」という詩(『青鞜』2号・1911年10月号)を紹介しておこう。7連のうちの1連である。

 唯だ「人」と、若しくは「我」とのみ名乗るぞよき。/雑多の形容詞を付け足さんとするは誰ぞ。/大と云(い)ひ、小と云ひ、善と云ひ、悪と云ひ…/そは事を好む子供の所為(わざ)なり。/何物をも付け足さぬはやがて一切を備へし故なるを。(女性史研究者・江刺昭子)

なお残る差別 「閨秀」から「女流」「女性」へ

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