なぜハイレベルな首位打者争いとなったのか 好打者・篠塚氏が振り返る1981年

屈指の好打者として巨人で活躍した篠塚和典氏【写真:荒川祐史】

控えで迎えた開幕戦、支えていたのは恩師・長嶋監督の言葉

 読売巨人軍の長い歴史に屈指の好打者として名を刻み、絶大な人気を誇った篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。1975年ドラフト1位で銚子商から入団し、名球会入りはならなかったものの、1994年限りで現役を引退するまで通算1696安打を記録。その打撃技術の高さは史上屈指とされ、プロを目指す多くの野球少年の憧れの的だった。

 Full-Countでは、天才打者が現役時代の名場面を振り返る連載「篠塚和典、あの時」を掲載中。第3回は、篠塚氏が球界にその名を轟かせた「1981年」。この年、篠塚氏は阪神の生え抜き打者で初めて名球会入りした藤田平内野手と超ハイレベルな首位打者争いを繰り広げた。篠塚氏にとって目標とする打者の1人でもあった藤田氏とタイトルと争う心境はどのようなものだったのか。

 1981年、実は篠塚氏は控え選手として開幕を迎えていた。1979年秋に「地獄の伊東キャンプ」を経験し、翌1980年は初めて100試合以上(115試合)に出場。1981年は二塁のレギュラー固めに挑む年のはずだったが、前年限りで恩師の長嶋茂雄監督が退任。1981年の開幕は東海大からドラフト1位で入団した大物ルーキーの原辰徳氏が二塁のレギュラーで起用された。

 篠塚氏にとっては“想定外”の事態だった。しかし、長嶋監督からはすぐに連絡が来たという。「腐るなよ」「チャンスは絶対にあるから」「だから、しっかりした練習をやっておけ」。この言葉を支えに練習に励むと、開幕後に三塁手の中畑清氏が負傷離脱。原氏が三塁に回り、篠塚氏は二塁で起用されることになった。その後、復帰した中畑氏は一塁に。1980年代の巨人の“形”が出来上がった年でもあった。

 中畑氏の負傷という形でレギュラーポジションを取り戻した篠塚氏は打ちまくった。

「中畑さんが戻ってきて、そこで成績が出ていなかったら、代えられちゃうというのがありました。でも、自分の中ではやっぱり中畑さんが戻ってきても、首脳陣だけじゃなくて、ファンの人たちにも『外させない』と思わせるような成績を残していけば、誰もが認めてくれると思っていた。中畑さんが戻ってきたからって、俺を外したら周りから(文句を)言われることになる。そうすると、中畑さんの居場所がなくなっちゃうなっていうのがありましたけど……(笑)。でも、やっぱり自分の力を示すっていうか、逆に、原が入ってきたから余計にああいう気持ちになって、燃えたというか。けっこうそういう逆境には強いから(笑)。普通にポンポン打って打率が2割5、6分だったら代えられちゃうけど、誰が見ても納得がいく、そういう成績を残さなければいけないというのはありましたよね。だから、あの年は1年間が本当にあっという間に終わってしまったような感じでしたよね」

篠塚氏が1981年に首位打者を獲れなくてもいいと思った理由は…

 元々、長嶋監督が惚れ込むほどの打撃センスの持ち主だった篠塚氏は、この年に開花。当時、球界屈指の好打者だった藤田氏と首位打者争いを演じることになった。藤田氏の打撃を参考にしていた篠塚氏にとっては「最高」の経験だったという。「僕も恵まれてるんですよ、そういう意味ではね。自分を奮いたたせてくれる人がいる」と語る。もっとも、タイトルを争っていることについては、当時は気にしていなかった。

「周りは『どっちかな』という感じでしたね。確かに争っていたから。でも、自分はここで(首位打者を)獲りにいこうという思いはなかったんです。(シーズン)途中で、藤田さんがまだ首位打者を獲ったことがないという話を聞いたし、自分たちは先に(ペナントレースの)試合が終わっていたので。周りの人は『もしかしたら』というのはあっただろうけど、自分の中では獲っても獲れなくてもよかった。獲っても、それはもう“儲けもの”のような感じになってしまう。そういう思いもありました。心の中で『藤田さんは獲ってないのか』という思いもありました。藤田さんも年齢がある程度上だったし、自分はその時にあと2、3回は獲れるかもしれないと、そういう自信もあったので。できたら藤田さんに獲ってほしいなと思いましたよ。カッコいい話かもしれないけど」

 シーズンを終えて残ったのは、打率.357という凄まじい成績。タイトルは藤田氏に譲ったが、このハイレベルな数字は、1984年(.334)、1987年(.333)と2度の首位打者に輝いた天才打者にとっても、生涯最高の成績だった。篠塚氏は「(シーズン終了後に)すごいな、と思いましたよ。後々、大変だなとも思った」と笑う。

 ただ、この1年が1つの“土台“になったことは確か。「掴んだというか、そこが始まりだった」と話す篠塚氏の打撃のレベルは、さらに上がっていくことになる。

「打率3割を3年間続けられれば、打者として周りの人も認めてくれる」

「1年間、自分が打ってきた感覚というのが、これがまた次の年にどうかというもあるし、(相手の)攻め方も変わってくる。でも、それが一番間違いでしたね。考えたのが。(翌年からは)考えすぎた、というのがありました。結局、.357を打った時は、まるっきりそんなの考えなかった。攻めがどう、とか。相手のピッチャーの球種だけ分かっていて、来たものを打つ、ということですね。データはあまり好きじゃなかったから。それがちょっと失敗したかなと次の年が終わって思いましたよ。ちょっと考えすぎちゃったなと。考えないで(打席に)入るのが一番難しいんです。いろんなことが画像として残ってしまっているし、頭の中にも残ってしまっているから。

 打ち方というのは1つじゃないので、こうすれば打てる、ということはない。確率が良くなるだけです。いかに確率よく、いろんなボールを捉えるにはどうしたらいいか。それはもう練習の中でやって、あとは練習でやったことが試合でできるかどうかだけです。試合でできれば自信になるし、練習でやってたことが一瞬でパッとその場で出てくる。そうなると、ある程度、体にそこそこ染み込んできてるんだなと感じるんです。練習で何もやらないでポーンと打ててしまったら、それは体に染み込んでない。だから長続きしないんです。

 練習の中で打撃投手のボールを打つ時に、こういう風に打ってみようとか、ああいう風に打ってみようとか、というのをやって、それがゲームで同じようにできるというのが必要です。でも、練習ではただ(何も考えずに)打っていて、(試合では)すごく難しい球を打ってしまう選手がいる。『この選手、こんなボール打っちゃうの?』と。ただ、それはもう本人がどう感じるか。練習で打っているボールを打てれば、それはもう体が覚えているから、そこに来ても確率よく反応できるというのがあるけど、そういうことを考えないで、ただ打ってたまたまできちゃったということになると、それは長続きしない」

 しっかりとテーマ、課題を持ち、練習から実戦を想定してバットを振る。天性の打撃センスに加え、努力を続けたからこそ、篠塚氏は球史に名を残す好打者として輝き続けることができた。その才能が開花したのが、打率.357を記録した1981年だったとも言える。

「1つ、自分が(プロの世界で)やっていくのにいいきっかけになったというか。あとは、長嶋監督に恩返しするというのを81年はやりながらだったので、その年にタイトルを獲ろうと思ったらあまり良くないなと思っていたんです。それで獲れたら儲けもののタイトルですから。81年は中畑さんが怪我しなかったらああいう1年にはならなかっただろうし、『謙虚にやっていこう』『この1年をこうやって乗り切っていって、その後にミスターに恩返しするのが、首位打者を獲ることだ』と。ただ、その(首位打者を獲る)前に3割を3年間打とうと、まずは思ったんですよ。打者として、あの時代は3割を3年間続けられれば、打者として周りの人も認めてくれるだろうと。ほぼそれだけでしたね。それで、81年の後も2年間は3割を打って、84年は最初から首位打者を狙っていった。それで獲っちゃったわけですけどね」

 篠塚利夫(当時)の才能が開花した1981年。藤田氏とのハイレベルな首位打者争いが繰り広げられた1年は、野球ファン、そして、本人にとっても、印象深いシーズンとなった。

(Full-Count編集部)

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