特集 70年前、済州島で起きたこと

「4・3事件」慰霊祭に参列して

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追悼式に出席した文在寅大統領と慰霊碑(共同)

 韓国南部の済州島で数万人の島民が虐殺された「4・3事件」を知ったのは、一冊の本との出会いだった。在日コリアンの詩人金時鐘さんが2015年に刊行した「朝鮮と日本に生きる」だ。今年4月に発生から70年を迎え、私は現地を訪れた。

 金時鐘さんは、日本の植民地統治下の朝鮮半島に生まれ、4・3事件に関わったため、両親や故郷を捨て日本に渡らざるを得なくなった過去がある。「在日の詩人」として多くの作品を世に送り出してきたが、4・3事件に関しては、長らく沈黙を貫いてきた。先述の著作は、その半生をつづっている。(共同通信=奈良支局・田中なつみ)

 蜂起、虐殺、鎮圧

 まずは、4・3事件について概要を記したい。

 1945年8月に日本の統治から解放された後、朝鮮半島には米国と旧ソ連の対立が持ち込まれ、済州島は米軍の占領下に置かれた。1948年4月3日、南朝鮮だけの分断国家樹立に向けた総選挙実施に反対した左派勢力の一部が蜂起し、警察などが鎮圧に乗り出した。その過程で、軍などは島民を左派の同調者と見なして虐殺し、左派側も非協力的な住民を処刑した。鎮圧作戦は54年まで続き、犠牲者は3万人を超えるとも言われている。当時、難を逃れるため多くの人が日本へと渡った。

 今回の渡航は、4月2日に旧アルコール工場跡地と呼ばれる場所で行われた慰霊祭に参列することが目的だった。日本と済州島の市民で構成する「漢拏山の会」が初めて企画し、金時鐘さんが実行委員長を務めた。

済州島

 海に連れて行かれ…

 「予備検束」という言葉をご存じだろうか。犯罪防止を名分に犯罪を行う蓋然性がある人を事前に拘禁する行為だ。4・3事件の当時、アルコール工場は集団収容施設として利用され、その中には予備検束者もいた。工場跡地は済州港近くにあり、現在はすでに更地となっている。漢拏山の会から受けた説明によれば、収容者の一部は、済州港から船に乗せられて連れて行かれ、海中に放り出されたという。

 「1950年8月ごろ、約500人が乗った船が海に出た後、約2時間後に空っぽになって戻ってきた」。そのような目撃者の証言があるという。遺体が見つかっていない犠牲者は、今も行方不明者として扱われている。

 済州島で殺りくが行われていたころ、日本の対馬には多くの遺体が流れ着いた。海流の流れから、済州島から漂着したとみられ、対馬の住民が対応した。その作業にあたった男性の遺族は、後に慰霊塔を建てた。

 凄惨な4・3事件には、日本の植民地統治が影を落としていることも忘れてはならない。そもそも工場は、サツマイモなどを原料とした燃料を生産し、旧日本軍に納品していた場所だった。また、警察、軍、右翼団体の多くは、植民地統治時代の機構や人員を引き継ぐ存在だったという。

 慰霊祭は、午前9時ごろから始まった。白いテントや椅子が用意された簡素な式典に、100人以上の在日コリアンらが参列した。この日、金時鐘さんは体調不良のため行けなかったが、代わりに音声メッセージが流れた。

 「旧アルコール工場跡地での慰霊祭は幾重の意味と特別な感慨をうずかせてやまない鎮魂の場である。植民地宗主国の日本の各地から有志がはるばる海を渡って参列していることの意義を考えさせられる」

 慰霊祭を企画した漢拏山の会の長田勇顧問(70)=和歌山県日高町=は、「過去の問題として、行方不明者として片付けられ、一番悲しい思いをしている死者だ。思いを届けたかった」と話す。旧アルコール工場跡地での慰霊祭に先立ち、対馬では2014年から4・3事件の犠牲者慰霊祭をしており、今年も9月に開催予定だ。「慰霊祭が事件の闇を照らす役割を果たすことになれば」と話した。

4月2日の慰霊祭

 「不幸な歴史を直視する」

 済州島で起きた70年前の出来事は、歴史をどのように後世につないでいくか考えさせられた。長らく「共産暴動」と位置づけられ、遺族は社会的に疎外された。2003年に当時の盧武鉉大統領が公権力による虐殺と認めて謝罪をしたが、

それまで市民の犠牲に目を向けられなかった。旧アルコール工場跡地でも、当時の惨状を伝えるのは、05年に済州島の遺族会が建てたハングルで書かれた碑文のみだった。

 事件から70年を迎えた4月3日、済州島の平和公園で追悼式が開かれ、12年ぶりに大統領が参列した。「国内には古い理念の下、事件の真実から顔を背ける人もいるが、不幸な歴史を直視しなければならない」。文在寅大統領の演説は、印象的だった。われわれもこの言葉から学ぶことがあるのではないか。そう感じた。