<100回目の夏 聖地を夢見て>・下 小浜 溝田澄夫監督(71) 育て、つないで半世紀 “うねり”感じた甲子園

 「気付いたらここまできた、という感じ。毎年毎年の選手との出会いのおかげかな」。チームを指揮して49年目。小浜の溝田澄夫監督は71歳になった今も、野球への情熱は少しも衰えていない。

 ■学生ズボンで

 終戦翌年の1946年生まれ。「道具もあまりない時代。小さいころは“三角ベース”で遊び、ボールがやぶに入れば、宝物のように探した」。千々石中、諫早高、西南学院大と野球を続けて、70年に家業の衣料品店を継ぐため帰郷。「単純に野球がやりたくて」母校でもない小浜に頼み込み、同年3月、軟式野球部の監督になった。
 最初に練習を見た光景は今も忘れられない。3人が学生ズボンをはいたままでキャッチボール。ほぼゼロからのスタートだったが、生徒と一緒に泥だらけになりながら、徐々に結果を出した。74年10月、当時の部長と一緒に、反対する学校を説得して硬式野球部へ移行。夢の甲子園を目指せる最低限の条件を整えた。
 若いころは、朝から晩までスパルタで「バシバシとやった」。そんな猛練習の成果が出て、77年夏に県で8強、同年秋に九州大会初出場。地方の県立普通校が、着実に実力校への階段を上がっていった。

 ■熱意は日本一

 29歳で結婚して3人の子を授かっても野球漬けの毎日。「休日に家族で出掛けたことはほとんどない。家内とは野球の話すらしなかった。ただ、今でも一番の理解者」。内助の功も大きかった。
 そして、88年夏。悲願の長崎大会優勝。現在のように他校と実戦を重ねる機会は少なく「練習試合は年間十数試合で、うち半分は近くの口加だった」。そんな地元密着だったからこそ、小さな町はかつてない熱気に包まれた。甲子園の初陣は開幕戦で1-19の大敗を喫したが、人的にも、金銭的にも驚くほど多くの支援が集まった。「生涯の中で“うねり”のようなものを感じたのは、あのときだけだった」
 普段は穏やかな表情も、いざグラウンドに立つと一変する。その温かく、厳しい恩師を慕って、練習や試合に顔を出すOBは少なくない。地元の小中学生の指導者も、今では教え子が多くなった。彼らの息子たちを預かるのも珍しくない。約半世紀、地域の野球を育て、つないできた。
 毎年、後輩たちのプレーを写真で撮り続けているOBの宮崎伸一さん(49)は言う。「技術だけでなく心の教育ができる監督。熱意は日本一だと思います」
 就任50年目を前に迎える記念大会。シードこそ逃したが、今季はそれに匹敵する成績を残してきた。「バッテリーを中心に甲子園に出場したときに負けない力がある。上を狙える気がする」。30年ぶりの聖地へ、熱い夏が今年も幕を開ける。

小浜を率いて49年目を迎えた溝田監督=雲仙市、小浜高グラウンド

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