秘められた史実 教えて 諫早市美術・歴史館館長 鈴木さん 原爆、水害犠牲者を火葬した旧諫早競馬場

 諫早市宇都町の県立総合運動公園はかつて競馬場だった-。その歴史を知る人は多いが、1945年の長崎原爆や57年の諫早大水害で犠牲となった人を火葬した場所という史実は知られていない。当時の記録や火葬に関わった人たちの証言は少なく、旧諫早競馬場の歴史を調査した市美術・歴史館の鈴木勇次館長が、秘められた史実を知る人を捜している。「当時を知る人たちがどんどん少なくなっている。今、集めておかなければ」-。
 鈴木館長は数年前から旧競馬場に関する調査を始め、当時の新聞記事や市議会の議事録などを丹念に調べ、設立から現在に至るまでの経緯を明らかにした。
 調査によると、旧競馬場周辺の土地は江戸時代以降、佐賀藩諫早領主だった諫早家が所有。戦前の38年、民間会社の諫早企業株式会社が土地を借りて競馬場を整備。1200メートルの馬場や観覧席、投票所などがあり、競走馬によるレースに沸いた。
 しかし、戦況悪化に伴い、競馬は43年以降に中止、徴用された軍馬の訓練施設に。終戦前になると、軍馬も不足し、軍需工場が周辺に疎開。終戦後の47年、競馬が再開されたが、県営事業に移行し、54年に廃止された。
 当時、本県への国体誘致の機運が高まり、旧競馬場をメインスタジアムとする計画が浮上。土地を所有する諫早家が58年、諫早市に寄贈し、同市が61年、県に譲渡。現在のトランススタジアム長崎の前身となる県立総合運動公園陸上競技場が68年に完成した。
 鈴木館長は、45年当時、諫早駅で負傷者を救護した90代男性に出会った。男性は「息絶えた人をリヤカーで競馬場に運び、次から次に井桁を組み、火葬した」「犠牲者の服に縫い込まれた住所と名前を紙に書き写し、遺骨とともに箱に入れた」などと話した。
 長崎原爆戦災誌によると、諫早市内にあった収容所の死体処理場所の一つに「諫早競馬場跡」とある。630人の死者・行方不明者を出した諫早大水害後も、この地で火葬した証言があるが、原爆後も含めて詳しい記録はない。
 鈴木館長は「火葬をはじめ、競馬場に関する歴史は不明確な点がある。諫早の過去を知る上で大事な歩み。少しでも知っている方の話を聞かせてほしい」と情報提供を呼び掛けている。

メーンスタンド近くにひっそりと立つ旧諫早競馬場跡地であることを示す碑=諫早市、県立総合運動公園
「今、集めておかないと、知る人がいなくなってしまう」と情報提供を呼び掛けている鈴木館長=諫早市内

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