【カツデンアーキテック 創業60周年】アンテナ、手すり、シースルー階段 時代象徴する商材/飛躍の原動力に

 カツデンアーキテック(本社・東京都台東区東上野)は今月、1958年(昭33)の創業から60周年を迎え、きょう29日に記念式典を開催する。今日に至る変遷をたどるとともに、坂田清茂社長に同社が目指す企業像を聞く。(文中・敬称略)

 創業者は坂田清茂の父、鐐司。徳川家康の出身地である三河地方、愛知県三好町(現みよし市)に五男三女の次男として生まれた。高校を卒業後、東京で叔父が営む家電の小売店に就職。やがて「もはや戦後ではない」と経済白書に刻まれ、早晩テレビが「三種の神器」と呼ばれる時代に。鐐司は7年の勤務を経て、テレビアンテナの事業化を構想した。今日のルーツとなる瑞江製作所(現カツデン)の誕生だ。

 翌年には生涯の伴侶となる、勝子と結婚。所帯を持つのを機に、江戸川区西瑞江に新居を兼ねた工場を建設した。時は高度経済成長期に差し掛かろうとしていたころ。東京タワーが営業を始め、本格的なテレビ放送時代の下地が整う中、テレビアンテナが加速度的に普及した。

 テレビアンテナを作れば作るほど売れるうち、創業から6年後の64年、東京五輪が開催した。景気は絶頂を迎え、テレビは白黒から色彩豊かなカラーに移り変わろうとしていた。だが日本は一転、五輪後に戦後最大の大不況に見舞われ、鐐司の製品も売れない状況が続いた。

 政府による大量の国債発行で再び好況にわいた日本だが、鐐司の危機意識は消えなかった。「このままアンテナにしがみついていたら先がない」。アルミニウムの表面処理を手掛ける姉妹会社を合併し、アルミを建材に使う新たな製品の可能性を探る中、鐐司に最初の転機が訪れた。

余力あるうちに成長事業育成

 きっかけは社員からの提案だった。「アルミで手すりをつくりましょう」。表面処理の設備に加え、アルミの加工も自前でできる手はずを整えた。現場では最初から組み立てた完成品を販売することで原価を抑え、社員たちの地道な営業も実を結び、建材部門は軌道に乗った。瑞江の工場は手狭となり、アルミの加工会社「ダイソオ」を吸収合併。製造部門の拡大に踏み切り、埼玉県美里町に工場を構えた。

 鐐司はアルミ建材の成長を横目に、アンテナ事業の縮小を始めた。大手の進出が相次ぎ、10年後の見通しが立たないとの判断からだ。会社の継続に重きを置く鐐司は、アルミ建材に経営資源を集中するとともに、社名をカツデンに変更。アンテナ事業は、販売店を持たない家電専門メーカーと手を結び、大手量販店に商品を納入する卸売業に転身を遂げた。

 アルミ建材はといえば、ハウスメーカーにアルミ手すりの販路を広げ、より良い商品の供給に向けて共同開発に注力した。外部アルミらせん階段もその延長線で製品化に至った。パイプを三次元に曲げたり、ボルトを見せない段板や手すりを組み合わせたりといった経験が、やがてカツデンアーキテックの下地となる。

 そんな折、84年(昭59)に鐐司の次男、清茂が大学を卒業してカツデンに入社。長男の雅敏(現カツデン社長)も4年間家電メーカーで営業経験を積み、清茂と同じ軒の下で働くこととなった。

 清茂は営業で2年、その後の設計で7年、ハウスメーカー向けのアルミ建材を担当した。開発部隊を経て木部工場に新設の品質管理課に課長として赴任。欠品の問題を目の当たりにした。本社に勤務時に中期経営計画書の立て方を学んだ清茂は、あらゆる角度から会社の現状を検証、分析した。「今後のカツデンの将来にとって、必ずや発展するための起爆剤となる」。清茂は、本社で上司に見向きもされなかった中期経営計画書を再び作成し、プロジェクトリーダーとして並々ならぬ覚悟と決断で大改革に臨んだ。生産管理システムのコンピュータ導入を最優先課題に掲げるほか、6S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ・安全)活動を先行して開始した。動線のスリム化に向けて木部工場の増改築にも着手。工場の生産性は建設前より3割改善し、欠品問題もおおむね解消した。

 前後して清茂は取引先の縁もあり、2週間の海外視察ツアーに参加した。渡航先は欧州。滞在中は刺激の連続だった。景観に対する価値観が大きく変わり、設計マンとしての血が騒いだ。

 その後取引先を通じて、JR西日本から新規の寝台電車の通路の窓側の壁と天井、それに付随する部品の依頼が来た。受注から納入までは4カ月。初めて設計するものばかりで、指定の素材は取り扱った実績がなかった。暗中模索で案件に向き合い、設計マンの実力と素材の知識、製造のスキルが飛躍的に向上した。新たな仕事が来ても、前向きに受け止めることができるようになった。

金属加工技術生かし潜在需要を捕捉

 清茂が欧州であらためて強くした新商品、自社ブランド立ち上げへの思い。それらは意外なかたちで実現する。取引先の大手ハウスメーカーが提案した、スチール製のシースルー階段だ。JR西の仕事に伴い、設備の内製化で導入したベンダーとレーザーに取引先が着眼した。「アルミ手すりのカツデン」から次なるステップに移行する、三度(みたび)の大きな転機が訪れた。

 鉄がメインの商品で実績がなかったカツデンに対し、既存の量産体制で制作する既製品と、ゼロから建築家の要望に応えるフルーオーダー品の中間に位置する製品に商機を見出した。清茂は▽シースルー階段であること▽現地で部材を組み立てる『ノックダウン工法』であること▽デザイン性の高い美しい階段であること―の3つをコンセプトに決め、スチール製のシースルー階段を自社のオリジナル製品として事業化する一歩を踏み出した。試行錯誤の末、スチールの素材感を強く押し出し、理想通りのすっきりしたデザインの第一号の規格品「オブジェア」だ。前後して清茂が自宅に取り付けた室内用のらせん階段「KDスパイラル」も商品ラインナップに加わった。

 階段事業が立ち上がる一方、鐐司は社員全員を集めた本社の朝礼で、建材部門の分社化を発表した。家電卸売業を従来のカツデンが継ぎ、創業以来の製造部門は建材メーカーとして新会社「カツデンアーキテック」が担うというものだった。

 カツデンアーキテックは「カツデン」に「アーキテクチャー(建築)」と「テクノロジー(科学技術)」を組み合わせて名付けた。カツデンの社長を実弟の基彦に引き継いだ後、長男の雅敏に、新会社の社長を清茂に任せると鐐司は決めた。2003年4月、清茂は41歳でカツデンアーキテックの社長に就任した。

 新会社が手掛けるメインの商材はスチール製のシースルー階段。メーカーとして国内で初めての商品に市場の反応も上々ながら、清茂はさらなる販売促進に力を入れた。その一環で木部工場にショールームを整備した。業界内に限定されがちな会社の認知度を上げるべく、最終的な判断を下す消費者の目に製品が触れられるよう工夫を凝らしたのだ。最新鋭の生産設備も導入し続け、生産能力を高めて商品のバリエーションを増やした。

 そして階段事業は発足から7年目の11年、黒字化を果たした。下降線をたどる新設住宅着工戸数と対照的に、階段事業の売上高は伸長。スチール製シースルー階段でトップ企業の地位を築く。

柔軟な発想力、国内外で顧客の信頼培う

 事業領域が広がるなか、スペインのデザイナー、マルセロ・アレグレ氏との出会いは、欧州の視察で清茂が覚えた直感に通じる。景観配慮型のサイクルスタンドや高意匠で軽量な薪ストーブ…。「美しく快適な空間づくり」や「地球環境の保全」といった経営理念を体現した取り組みそのものだ。12年からは工場でベトナム人実習生の受け入れを始め、15年に南部ビンズオン省に工場を建設した。日本とそん色ない板金加工と溶接、塗装の各工程に準じた生産ラインを確立し、日本向けの輸出と現地需要の捕捉を両にらみで成長の原動力につなげる。

 2013年。創業から55回目の春が迫る2月、鐐司は享年80歳で人生の幕を下ろした。半世紀を超えて会社を取り巻く市場環境は大きく変容する一方、鐐司がものづくりに寄せた思いやこだわりは清茂率いるカツデンアーキテックに息づく。現在主力の階段さながらに、新たな商品とともに歴史を刻んでいく。

坂田清茂社長に聞く/「美しく快適な空間づくりで社会に貢献」/「変化を捉えニッチな市場でトップ目指す」

――創業から60年の節目を迎えての、率直な感想をお聞かせください。

 「草創期から今日にかけて、当社を支えて頂いたOBや家族、取引先をはじめ多くの関係者にまずもって感謝の言葉を申し上げたい。きょう開催する記念式典は、そうしたみなさんと時間を共有し、これまで会社が歩んできた足跡を後世に伝える場として考えている」

――このたび社史「活伝」を編さんしました。副題は「時代の声に耳を研ぎ澄ませば、必ず道は拓ける」。カツデンアーキテックの歩みを端的に言い表した印象を受けます。

 「持ちうるノウハウやネットワークの範囲で、その時代に自分たちに何ができるのかを繰り返し考え、実現に向けて知恵を絞ってきた。具体的な例を挙げると、まずテレビの急速な普及に着眼して、テレビアンテナを製造したのが始まり。その後は住宅生産の工業化を背景に、テレビアンテナの加工技術を活かしてアルミ手すりを起点に建材業界へ参入した。さらに世界的に環境問題がクローズアップされる中にあって、広く金属の加工技術を使ってサイクルスタンドや薪ストーブへと商品領域を広げていった。これまで取り扱ってきた商材はいずれも時代背景を象徴するものばかりだ」

 「ただ時代は常に変化するもの。だからこそ潜在的な市場ニーズを素早く読み取り、先行投資に踏み切る。『余力があるうちに成長事業を育成せよ』とは父(創業者の鐐司氏)の教えだ。決して一つの商材に固執せず、これまで磨き上げきた技術やノウハウを基に、事業転換を通じて常に新たな布石を打ってきた。時代のニーズに合わせて、ニッチな市場でトップに立つための戦略であり、父の企業家精神とも言える。その結果取り組んできた一つ一つの事業は、まさにこれまでの歩みそのものといえるだろう」

――カツデンから建材部門を「カツデンアーキテック」として分社したのが2003年。経営の舵を取り、15年の歳月が経ちます。

 「テレビアンテナの製造から派生した家電卸売部門と切り離すことで、経営責任の所在が明確になり、事業のスピード感が一段と高まった。当時の建材部門では主力製品がアルミ建材製品だったのに対し、分社化とほぼ同時期に、メーカーとして国内初のスチール製シースルー階段を取り扱う階段事業部を立ち上げた。社会で『家族間のコミュニケーション』の在り方が問われ、住宅業界においても手つかずで、未来ある市場として有望だった。それ以前にアルミのらせん階段の納入実績があったことも大きかった。試行錯誤を重ねながら長年培ってきた『板金加工』に『溶接』と『塗装』の技術を内製化し、自社ブランドとして量産する道筋を付けた。現在では大きな収益の柱となって屋台骨を支える存在だ」

――シースルー階段をベースに、その後も子ども用はしごや、壁を自由にデザインできる間仕切りなど毎年新商品を送り出しています。

 「経営理念にもあるが、私たちの使命は『美しく快適な空間づくり』。当社にしかできないユニークな商品の開発を通じて、より良い社会づくりに貢献したいとの思いは揺るがない。これまでもこれからも会社の存続に向けて、最良と考える一手は惜しまない」

――東京都江戸川区を発祥に、現在では仙台から福岡まで、本社を含めて全国に8つの営業拠点と埼玉県美里町に2つの工場(木部・団地)をもつまでに拡大しています。

 「工場では2012年からベトナム人実習生を受け入れている。それを機にベトナムに工場進出し、南部のビンズオン省に生産拠点を構えてから4年目に入る。コンテナ船を活用して納期や数量など計画的に生産しやすい日本向けの製品や現地で販売する階段を手がけている。現場では当初の約10人から30人程度の体制となり、今年5月にはホーチミン市内に事務所を開設した。現地の設計事務所へのアクセスも良くなるほか、日本と同じCADシステムを新たに導入し、図面作成の対応力を強化する。潜在需要が旺盛な東南アジアにあって、周辺の国や地域への展開を考えれば、ベトナム市場での取り組みは大きな試金石となるだろう」

――東南アジアはますますの成長が見込まれます。

 「われわれが考えているものをどうプロモーションするのか。価格競争には太刀打ちできない。技術に裏打ちされた柔軟な発想力を武器に、国内外で顧客の信頼を勝ち取っていきたい」

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