かくれキリシタン 禁教期のオラショや行事を後世へ 信仰の形態守り続ける

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 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産としての価値は、「潜伏キリシタン」が育んだ日本独特の信仰の形だ。「潜伏キリシタン」と「かくれキリシタン」は「隠れキリシタン」としてひとくくりにされることも多いが、同遺産では潜伏とかくれを明確に区別している。

 「潜伏キリシタン」とは、江戸幕府と明治政府によってキリスト教の信仰が厳しく禁じられていた時期に、ひそかにキリスト教への信仰を続けていた人々のことをいう。江戸幕府が1614年に出した全国禁教令は、1873年に明治政府が禁教令の高札を撤去するまで続いた。

 1637年、キリシタンが多かった島原半島と熊本県天草の農民が蜂起し、「島原・天草一揆」が起きた。これを機に幕府はキリシタンの取り締まりを一層強化したため、一揆以降が本格的な潜伏の時代とされる。

 潜伏キリシタンは信仰を隠すために仏寺の檀家(だんか)や神社の氏子になった。禁教前に地域でつくられていた信仰共同体が潜伏組織に変化し、地域ぐるみで信仰を守った。組織の役職者を中心に、洗礼の授け方、さまざまなオラショ(祈り)、聖像や聖画など信仰用具、カトリックの祝祭日を記した教会暦などを、親から子、子から孫へと伝えていった。

 明治初期に信仰が解禁された後は、キリスト教の信仰を隠す必要はなくなったが、宣教師の布教を受け入れず、禁教期と同じように仏教や神道を装った独自の信仰形態を続ける人々も多かった。この人たちが「かくれキリシタン」と呼ばれる。

 かくれキリシタン研究者の故田北耕也氏は1953年の時点で、県内には生月島、平戸島西部、五島列島、長崎市の外海地区、岳路地区、家野町などにかくれ組織が存続し、信者数は約3万人と見積もった。だが、戦後の高度経済成長に伴い、離島や半島部では急速に過疎化が進み、宗教に対する関心の薄れも相まって、役職者を継ぐ人が少なくなった。かくれ組織は次々と解散に追い込まれた。

 現在、かくれ組織が存続しているのは生月島、長崎市外海地区、新上五島町の若松地区だけといわれる。かつてほぼ全島民がかくれ信者だったとされる生月島でも、平戸市生月町博物館島の館は現在の信者数を約300人とみており、島民の5%にすぎない。

 かくれ信者は禁教期のオラショや行事を受け継ぐ貴重な存在であり、「長崎かくれキリシタン習俗」として国の無形民俗文化財になっている。しかし、潜伏キリシタン遺産は世界遺産価値を過去の「潜伏キリシタンの信仰」としているため、現在のかくれキリシタンには重きを置いていない。

潜伏キリシタンとかくれキリシタン
生月島のかくれキリシタンの行事「ダンジク様」=長崎県平戸市生月町