原爆写真調査に尽力 先月25日死去の堺屋さん 「偉大な『研究者』失った」 関係者しのぶ

 長崎平和推進協会写真資料調査部会で原爆関連写真の収集・調査に長年尽力した堺屋修一さん=長崎市=が6月25日、91歳で亡くなった。豊富な知識で草創期の検証活動を支えた。関係者は「偉大な『研究者』を失った」と故人をしのんだ。
 堺屋さんは長崎市で生まれ、市立商業学校(現長崎商業高)を卒業。長崎原爆は満州にいたため、被爆を逃れた。帰国後、三菱電機に入社。その頃から趣味として古写真を集め始めた。長崎の歴史や地理に詳しく、戦前や戦後の長崎をとらえた大量の写真が今も自宅に保管されている。写真部会には1983年の発足直後に入会。約10年前まで所属し、副部会長も長く務めた。
 同時期に部会長を務めた被爆者の深堀好敏さん(89)は、調査活動に一緒に汗を流した。「古写真に造詣が深く、特に市中央部の解明は堺屋さんなしではできなかった」。県立長崎図書館に通い詰めて調べた資料は今も部会の財産として残る。
 2人は市所有の原爆写真のデータベース化事業に協力。2001年から3年間、撮影日や爆心地からの距離などを割り出す作業に励んだ。深堀さんは「研究者のような人だった。部会の『恩人』であり、大きな功績を残した」と惜しんだ。
 同じく活動をともにした同部会員で被爆者の堀田武弘さん(76)が一番の思い出と振り返るのは05年に長崎市民会館で開いた被爆60周年の原爆写真展。約230点を展示した大規模な催しに向け「展示写真の幅を測定し会場の設計図を自ら準備するほど緻密な人だった。深堀さんとのコンビで原爆写真の現地確認に行く姿が印象的だった」としのんだ。
 写真家の顔も持ち、原爆復興後の長崎を撮影した写真集を出版。幕末の志士坂本龍馬に関する当時の新聞記事を調査して本にまとめるなど、長崎史に関する幅広い知識は地元の文化関係者からの信頼も厚かった。古くから親交があり郷土史の勉強を一緒にしていた長崎歴史文化協会理事長の越中哲也さん(96)は「私の疑問をすぐに調べて教えてくれた。長崎の戦後の歴史に精通していただけに、非常に残念」と話した。

旧長崎国際文化会館で記念写真に納まる写真資料調査部会の部会員。左から2人目が堺屋さん、右隣は深堀さん=1993年6月(長崎平和推進協会写真資料調査部会提供)

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