大阪の野球人にとって「特別な場所」日生球場&藤井寺球場の記憶

近鉄の歴代本拠地球場一覧

「東の神宮、西の日生」と並び称されたアマ野球の聖地・日生球場

 関西の球場というと阪神、そして高校野球の聖地・甲子園。しかし、記憶に残る素晴らしい球場が大阪にはあった。アマチュア野球のメッカ、そして近鉄名勝負の舞台となった日本生命球場と近鉄藤井寺球場である。

「われわれ近鉄の選手にとって日生は晴れ舞台。そして藤井寺は道場でしたよ」

 そう語るのは、近鉄一筋で日本球界歴代4位となる317勝を挙げ、現役引退後は監督も務めた大エース、「草魂」、そして「投げたらアカン」が代名詞の鈴木啓示さんだ。

「晩年は藤井寺が改修されて日本シリーズなども行われた。でも、近鉄の人間にとっては日生がずっと本拠地。日生というくらいで日本生命の持ち物でしたが、僕らは自分たちの家だと思っていた」

「藤井寺は近鉄のもので合宿所もあった。でも、基本的に2軍が使うものという感覚があった。藤井寺ではとにかく鍛えられた印象しかない。早く1軍に上がって日生でやる、というのが選手たちにとって共通の思いでした」

 1950年に開場した日生。JR大阪環状線の森ノ宮駅目の前で、大阪城まで歩いてすぐの立地。まさに大阪を象徴するような球場であった。

 開場後初の試合は、日本生命と明治大、関西大を招いての招待試合。その後プロの試合も行われたが、54年シーズン後からは日生の意向でアマチュア専用として使用された。近鉄が使い始めたのは58年から。立地条件の良さと藤井寺に照明設備がなかったため、「ナイターだけでも使いたい」という要望を出し、近鉄が既存の照明を回収して日生へ譲渡する形で使用を開始した。

 しかし、両翼90.4メートル、中堅116メートル、収容人員2万500人はプロが使用するには狭すぎた。加えて、もう1つの本拠地・藤井寺は依然、照明施設がなかった。そのため79、80年の広島との日本シリーズは、南海の本拠地・大阪球場を間借りして行われた。

 プロには少し手狭だったが、アマチュア使用では「東の神宮、西の日生」と言われるほど重宝された。55年から関西六大学リーグ、56年から近畿大学リーグが使用。高校野球の大阪府予選も球場閉場年まで毎年開催された。

 日生最後の野球試合もアマチュア。97年11月8日の全日本アマチュア野球王座決定戦の近畿大と三菱自動車神戸戦。そして同年、なみはや国体を最後に12月31日で解体された。現在は駅前の好立地を利用したショッピングモールに姿を変えている。ちなみに高校球界の名門だったPL学園は、太陽の向きなど予選対策として同校グラウンドを日生と同じ向きに建設したという。

照明施設のなかった藤井寺 本塁打飛び交う狭い球場で生まれた名場面

 1928年に完成した藤井寺は、2006年に解体されるまで約80年の伝統をまっとうした。建設当初の敷地面積は約5万9000平方メートルと甲子園を凌ぐ広さを誇り、内野席に大銀傘をつけた約7万人収容の大球場だった。開場後しばらくはアマチュアに使用されていたが、49年2リーグ分裂とともに近鉄が新球団を結成。球場の改修を行うとともに、50年から近鉄パールズが本拠地とした。

 藤井寺には当時、照明施設がなかった。そのため近鉄は平日夜間は大阪球場と日生を使用。週末や祝日などの昼間にしか藤井寺は使用されなかった。また日生と同様にNPBの定める「照明設備のある収容人数3万人以上の球場」という規定を満たさないため、日本シリーズ、オールスターが開催できない。そのため近鉄のチーム状況が良かった73年、球場の大規模改修計画が発表された。しかし、球場周辺環境の問題などで地域住民と対立。84年まで協議に時間がかかり、照明設備が完成するまで同様の状況が続いた。

 84年には鈴木啓示さんの300勝達成、89年には悲願の日本シリーズ開催など、数々の名シーンが生まれた藤井寺。80年10月3日の近鉄対ロッテ戦では1試合13本塁打。86年8月6日の近鉄対西武戦では西武が1イニング6本塁打など、球場の狭さをめぐるエピソードにもこと欠かさなかった。なお鈴木啓示さんの560被本塁打はMLBを入れても最多記録である。現在、藤井寺跡地には学校や大規模マンションが建っている。

 近鉄の一員として日生、藤井寺の両球場でプレー。しかも悲願であった藤井寺での日本シリーズにも出場した村上隆行さんは振り返る。

「時代が時代なんで、僕らはあまり球場の汚さは気にはならなかった。球場が狭かったので僕ら打者は本塁打が出やすかったのは確か。ヤジもよく聞こえましたしね。藤井寺なんて河内地方の高級住宅地なんて言われてたけど、ヤジはひどかった。でも優勝した年はそんな球場だったから、ファンの声援も力になったと思う。相手選手はうるさくて嫌だったんじゃないかな。

 89年の日本シリーズの時は異様な雰囲気。しかも、3つ最初にとったから誰もが行けるという雰囲気。それが4連敗ですからね。例の、巨人はロッテより弱い、というコメントもクローズアップされた。だから、最終戦の試合終了間際はほんまに暴動が起きるんちゃうか、という感じだった」

大リーガー・マネー退団にまつわる「日生球場ゴキブリ事件」の真相

 近鉄に関しては、今でも面白おかしく語られる話がある。84年、MLBで通算1623安打を放ち、オールスター出場経験もあるスター選手、ドン・マネーが入団。優勝請負人として大きな期待されるも開幕早々、帰国してしまった。しかもその原因が「日生球場のロッカーにゴキブリが出たから」と伝わっている。この件について村上さんは真実を語ってくれた。

「少し間違って伝わっている。日生のロッカーはたしかに古くて狭かった。カビ臭かったしね。でもゴキブリが出たのは、実は球団が準備したマネーのマンション。それで奥さんが怖がって帰国してしまった。それが原因で慌てて藤井寺の改修に踏み切ったんです」

 マネーのゴキブリ騒動があったのは日生ではなかった。しかし、それがきっかけで85年に藤井寺の改修も行われたということらしい。

「藤井寺のロッカーは多少キレイになったし、外野に人工芝を敷いたり、スタンドも改修した。でも、根本は変わらない。外野のフィールドなんて人工芝なのにデコボコですから。お前らこんなところでよくケガしないな、と他球団の選手はいつも言ってました」

 藤井寺も日生とならび大阪におけるアマチュア野球の聖地的存在であった。1931年から2004年まで高校野球大阪府予選がおこなわれ、日生解体後の98年からは決勝戦の舞台となった。また56年から80年までは現在、兵庫県で開催されている全国高等学校軟式野球選手権大会の会場だった。

元近鉄・村上さん「藤井寺は近鉄が残してほしかった」

 日生、藤井寺のなくなった今、大阪府内にはアマチュア野球の公式戦を行える球場が足りなくなってしまった。

「プロ以上にアマチュアが使っていた2球場だったからね。この2球場以上に使い勝手のいいところはなかったんじゃないかな。球場側も、近鉄よりも優先なんじゃないか、と思うくらいアマチュア野球を大事にしていた。駅からも近いし、プロでは狭かったけど、アマチュアには十二分の広さ。ロッカーなんかも万博や花園なんて草野球場を少し良くしたような設備。新しい球場もいくつかできているけど、もっと作ってほしい。そういう意味では東京の方が、駒沢や八王子、江戸川など郊外へ行けばたくさん球場があるからね。

 やっぱり日生と藤井寺がなくなった時は寂しかったよ。日生は企業のものだからしょうがないけど、藤井寺は近鉄が残してほしかった。プロでなくともアマチュアでずっと使ってほしかった。近鉄で長かったとはいえ、福岡出身の僕でさえそう思うから、大阪の人たちはもっとそう思っているんじゃないですかね」(村上さん)

 プロやノンプロに入って現役を続けられるのはほんの一握り。多くの選手たちは高校、そして長くとも大学で「勝った負けた」の野球とは離れてしまう。だからこそ、自分が現役最後に立ったフィールドは一生、記憶に残る。そこに行けば当時の夢の舞台があり、1つの青春の終わりと、新たな青春の始まりを思い出す。それはその場所が広い、狭い、キレイ、汚いではない。特別な場所、それこそが日生であり藤井寺であった。しかし、その場所を失ってしまった大阪の選手たちも少なくない。

 高校野球100回の記念大会がまもなく始まる。選手たちにとって特別な場所は可能な限り、残してほしい。それこそが言葉だけでない真の「レガシー」ではないだろうか。平成最後の夏がまもなく熱く燃え上がる。

(Full-Count編集部)

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