時代の名冠した「平成ニュータウン」 「第二の新屋敷」ならずも住みやすい街に

平成ニュータウンを南北に貫く平成大通り=6月、熊本市南区
整備前は農地が広がっていた現在の平成ニュータウン一帯=1982年3月
平成ニュータウンの北端に位置するJR平成駅。周辺には住宅やマンション、商業施設が建ち並ぶ=6月22日、熊本市中央区

 「平成」は来年4月末で幕を閉じる。県内の動きを振り返る「平成くまもと30年」(13日から月2回予定)の連載開始を前に、時代の名を冠した「平成ニュータウン」の今昔を見る。

 熊本市の中央区と南区にまたがる新しい街は「平成」とともに時を刻んできた。開発計画は昭和末期に動きだし、絶好調だった国内経済を追い風に117ヘクタールもの広大な農地は「平成ニュータウン」に生まれ変わった。12年がかりの土地区画整理事業は1992(平成4)年に完工した。

 「目指したのは“第二の新屋敷”でした」。事業主体の市南部第一土地区画整理組合で副理事長を務めた清田好弘さん(82)は振り返る。新屋敷は市内でも指折りの高級住宅地。広々とした街路や公園を整備したニュータウンは、宅地もぜいたくに配置した。

 「通常の住宅の敷地は50坪程度で十分だが、ここでは80坪が標準になった」と清田さん。しかし、事業完工の92年前後はバブル経済の崩壊期だった。広い宅地が裏目に出て、その高価格は住宅市場と折り合わなかった。「仕方なくアパートや倉庫、事務所で土地運用する地権者が多く、思うように一戸建て住宅は建たなかった。現状は高級住宅地とは言えませんね」

 それでも各種の商業施設が整い、「住みやすい街」との評価を受けている。中心的な存在の「サンリブシティくまなん」は93年の開店時、県内最大のショッピングセンターだった。県外資本の参入には当時、慎重意見もあり「もしかしたら今と違う形になっていたかもしれない」と清田さんは言う。「後に経営破綻した地場大手の2社も、出店意欲を見せていましたから」

 「歩いて行ける範囲に店がそろっているんです」。平成ニュータウンに住む東田[ひがしだ]恵さん(24)=熊本市南区江越=は生後4カ月の長女を抱き、大型ショッピングセンター「サンリブシティくまなん」をよく利用する。「近くには病院も多くて助かります」

 1993(平成5)年開店のサンリブはシンボル的な存在だ。ニュータウンを開発した市南部第一土地区画整理組合は、中核となる商業施設を重視。建設用の保留地は当時、地場大手の寿屋とニコニコ堂も購入を申し出た。「しかし肝心の事業計画書は出されず、まちづくりにどう貢献してくれるのか分からなかった」と、組合副理事長だった清田好弘さん(82)は語る。

 保留地は特別に1坪約20万円で売り出されたが、バブル市場で価格は100万円ほどに跳ね上がった。「2社とも転売の恐れも懸念された」。結果として寿屋は2001年、ニコニコ堂は02年に経営破綻。両社が他地域で展開した大型ショッピングセンターは、県外資本の看板に掛け替わった。清田さんは「当時は地元を優先すべきと批判もされたが、結果的には地場企業にこだわらずによかった」と振り返る。

 「下通あたりからタクシーに乗っても料金は千円以内。駅もあって便利です」。日吉東1町内自治会長の池永英一[ひでいち]さん(76)=南区平成1丁目=が、ニュータウンにマイホームを求めたのは88年の終わり。翌89年1月7日に描き始めた絵の裏には「天皇崩御 本日昭和六十四年より平成となる」と記した。今も残している熊本城の絵だ。

 ニュータウン内の町名は江越、馬渡といった旧小字を使った所もあるが、十禅寺町や世安町などの一部が平成1~3丁目になった。「新しい街にふさわしく平成にしようと住民から意見が出たのがきっかけ」と池永さん。町名変更の翌92年には、地元の誘致でJR平成駅が開業した。

 JR九州によると、1日当たりの乗車人員は約千人(2016年度)で、見込みの4倍が利用。当初はニュータウン南側の「流通団地」とひとくくりにされがちだったが、「平成の名がすっかり定着したと感じる」と言う。

 期待された一戸建て住宅は増えず、池永さんが住む日吉東1町内も7割は賃貸マンションやアパート住まい。若い世代が多く、自治会長を長年務める池永さんは「住民同士の絆は薄いかもしれない」と心配も。住民同士のつながりを深めようと毎年「平成桜まつり」が開かれ、街の成長は今も続いている。(小多崇)

(2018年7月6日付 熊本日日新聞朝刊掲載)

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