扶桑鋼管 創立50周年、〝第三の創業〟へ

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 機械構造用鋼管(STKM)の卸売・各種加工を手掛ける扶桑鋼管(本社・千葉県浦安市、社長・江村伸一氏)は今日11日、創立50周年を迎えた。鋼管問屋としてSTKMの在庫販売からスタートした同社は、江村社長の代になって以降、機械加工部品コーディネーターとして進化。アジア圏を中心とした海外展開も積極的に行ってきた。これまで培った機能を磨き、世界をマーケットとして新たな事業展開を模索していく扶桑鋼管。江村社長は半世紀の節目を「第三の創業」と位置付ける。独自ノウハウを構築してきたこれまでの歴史と扶桑鋼管の描く「今後」の展望を紹介する。(後藤 隆博)

鋼管問屋・マーケットが確立された後に創業

 扶桑鋼管の設立は1968(昭43)年7月。国内では継目無(シームレス)鋼管の問屋、マーケットがほぼ確立された後の船出だった。

 創業者で江村社長の父でもある江村康現相談役は、52(昭27)年から7年間飯田鋼材に在籍。入社してすぐに鋼管の商売をやることになり、東京の板橋・舟渡にあった日本特殊鋼管(現新日鉄住金君津製鉄所東京地区)の継目無鋼管を扱うことになった。伸管用母材や機械構造用鋼管を岸田産業経由で飯田鋼材が買ってユーザーに細かく売る商売をしていた。

 その後、飯田鋼材の業績が悪化。ちょうど岸田産業の岸田社長から鋼管問屋の別会社を設立する話を持ちかけられ、59(昭34)年に共同で飯田橋に「東邦管鉄」という会社を設立。以後、役員として9年間在籍した。

 当時、新日本製鉄(現新日鉄住金)の前身である八幡製鉄が55(昭30)年に山口・光市に光製鉄所(現新日鉄住金大分製鉄所光鋼管工場・新日鉄住金ステンレス光製造所)を設立。電縫鋼管工場を立ち上げて、岸田産業はその電縫管を売らなければいけない立場に。必然的に東邦管鉄も扱いのウエートが高くなる。60(昭35)年に、日本特殊鋼管は八幡製鉄の子会社になった。

 この頃から、江村相談役は「ハイエンドの継目無鋼管の商売がしたい」との思いを持つようになる。きっかけは、某印刷会社の社長との会話だったとか。68(昭43)年に東邦管鉄を辞めて、扶桑鋼管を設立した。一方の東邦管鉄は、社内事情などによって71(昭46)年に解散した。

 江村相談役は機械部品向け継目無鋼管を拡販するため、特殊鋼の世界ではメジャーだったS45Cの規格材を鋼管にも欲しいと、当時の住友金属工業(現新日鉄住金)に約1年間通い詰め、74(昭49)年に規格材として生産してもらうことに成功。在庫販売を開始した。これが扶桑鋼管の原点となる。社名には「日本を象徴する言葉を」とのコンセプトで「扶桑」とつけた。

江村社長入社、26歳で大阪営業所の所長に

 江村社長は79(昭54)年に大学卒業後〝修行〟のため住友商事に入社。大手電機メーカーを担当した。上司や先輩、顧客から厳しいことを言われながらも、社会人としての基礎を身に付けてきた。

 当初は3年間の予定だったがちょうど扶桑鋼管が大阪に進出して人材不足の状態だったこともあり、2年間で呼び戻された。81(昭56)年に入社し、2週間ほど東京本社に出社したが、すぐに大阪に行くことになった。

 当時の扶桑鋼管はS45Cの在庫販売で成功。収益源の約7割を占め、独自性のある鋼管問屋としての立場を確立しつつあった。ただ入社後、実は会社全体の財政が火の車であることが判明。住商時代に経験したことのない分野の商売を大阪で展開するという難しい局面にいきなり直面した。2年後には、大阪営業所の所長を任せられる。

 地場の既存特約店と競合しないように細心の注意を払いながら業務を展開。大阪では〝新参者〟の扶桑鋼管にはメーカーからの縛りもきつく、苦労の連続だったという。

 難局打開の苦肉の策として江村社長が考案したのが「部品加工製造」だった。素管を販売する従来の特約店業務ではなく、顧客のニーズに合わせて素材を加工し「部品」として売るシステムを確立。当時扶桑鋼管は部品加工設備を持っていなかったため、顧客に素材を供給し、加工したものを異なる系列のユーザーラインに乗せてデリバリーするクロスソーシングを利用した。これが、現在の扶桑鋼管が推進する「コーディネート営業」の源となっている。

 江村社長は大阪営業所赴任期間中、日割りや月次の売上高を営業集計ノートに記録していた。今も、社長室の机の引き出しに大切に保管されている。

 大阪営業所の所長時代、江村社長は労働組合問題にも直面した。84(昭59)年11月下旬、突如として所内に労働組合が発足。共産党系の弁護士も敬遠するような厳しい組合との対決だった。江村社長はひたすら従業員や会社に対する思いをストレートにぶつけ粘り強く交渉。3カ月後、組合の解散という形で事態を収束させることに成功した。この時、江村社長は労組メンバーとなった社員らの罪を一切問わず、誰一人解雇することはなかったという。

 「会社の経営、自分の役割、従業員の職場環境や売上げ・利益を伸ばす根本的な意味を考えるようになった」と江村社長。大阪での新たな商売形態の確立、労働組合問題の解決は、江村社長を経営者として一回り成長させた。

本社に戻って会社の立て直しにまい進

 大阪営業所もようやく軌道に乗って順調に推移してきた87(昭62)年、円高不況が扶桑鋼管を直撃した。需要家からの相次ぐ値下げ要求への対応に追われ、この時ばかりは赤字に。やむを得ず、江戸川区の葛西駅前に借りていた事務所を撤収し、浦安鉄鋼団地の現場事務所に移転。メーカーのサポートもあって、何とか難局を乗り切った。

 その後、東京本社の主要従業員が全員辞めてしまう事態が発生。業績も急激に減速していた。江村社長は東泉鋼管(現住商鋼管)から人を出してもらい大阪営業所の所長を引き継ぎ、88(昭63)年の6月に東京本社に帰還。経営立て直しの指揮を最前線で執ることになる。

 まず着手したのが、同業他社を巻き込んだ徹底した値下げ競争の回避だった。六角鋼管や埃をかぶっていたその他不良在庫も処分。江村社長自身も倉庫に入り、在庫の整理を行う日々が続いた。整理が終了するまでには2~3年かかった。

 不良在庫を資金化して空いたスペースに回転の良い儲かる商材を入れる。その一つが、S45Cに付随する形で扱っていたSTKM13Aだった。江村社長は同管種のサイズ別出荷データを綿密に分析。当時の扱い大手筋が売れる価格で赤字にならないよう仕入れを行って販売した。ただこの時期、資金力の乏しさから倉庫の確保には非常に苦労したという。

 会社の立て直しを進める中で、江村社長は「キャッシュフローの重要性」を認識する。中小企業診断士の専門書を買って仕事後に勉強するようになった。損益計算書や貸借対照表、経費の仕訳など経理のイロハを独学で学んだ。

 扶桑鋼管は、円高不況時に多角化経営をもくろんで中国製のシルク製品を取り扱う繊維事業を始めた。しかしすぐに失速。在庫が積み上がり、赤字になっていた。この時期に江村社長は「自分が社長になって会社を作り直さなければ」と固く決意。江村相談役に社長交代を直談判した。95(平7)年、江村社長が就任。繊維事業からはその後撤退した。江村社長は事業を失敗することの大変さ、新規事業を始める際は安易な考えではだめということを肝に銘じる。と同時に、貿易の海外展開に興味を持ち始めるきっかけともなった。これが、直近10年間での相次ぐ海外展開の原動力の一つとなった。

材料管在庫販売問屋から部品コーディネーターに

社長で〝第二の創業〟、北陸に加工センター

 江村社長が社長就任後、扶桑鋼管は材料を海外メーカーに売って加工製品を再輸入販売するコーディネート営業を推進してきた。そのきっかけの一つが、韓国某社からきた一枚のファックスから始まった貿易だった。

 「いつか貿易をやりたい」と思っていた江村社長。メーカーや商社の助けを借りながら、少しずつ事業として確立していった。江村社長自身も貿易関連のビジネス書を買って猛勉強した。

 2004(平16)年、扶桑鋼管は韓国最大の引抜鋼管メーカーであるYCP社と折半出資によりYCP&JAPANを設立した。25年ほど前から韓国では素材メーカーが台頭。様々な部材ニーズが出てくるようになった。扶桑鋼管が培ってきた自動車や建機などに売っているノウハウが、そのまま韓国で生かせるチャンスとなった。江村社長自らも現地の研究所や製品開発部隊に出向き、サンプル発送の依頼などを受け、商売は加速度的に膨らんだ。

 韓国ではこのほか、昨年7月に現地商社と組んで海外材中心のSCM415、440などのクロムモリブデン鋼、SNCM(ニッケルクロムモリブデン鋼)、日本材の高張力鋼(ハイテン)980S、780LE、耐摩耗鋼C400の鋼板類などの在庫を開始。現地の既存需要家向けに、ジャスト・イン・タイムのデリバリー体制を強化した。

 今から約10年前、国内ではコーディネート営業をさらに進化させるため、北陸に加工会社を新設する計画が進んでいた。当時、マイニング用建機向けで大きな需要があったことも背景にある。2008(平20)年11月、石川県小松市の新興工業団地に建機向けを中心とした鋼管部材関連の加工子会社「扶桑チューブパーツ(FTP)」を設立。翌09(平21)年2月には北陸加工センターを開設し、本社と大阪で行っている建機向けを中心とした精密部品加工販売業を集約した。

 北陸加工センターにおける工場棟の大部分はFTPの加工拠点。建屋を増強した順番に、第一加工センターの第一~三加工棟、一昨年新設したレーザ加工専用棟の第二加工センターに分かれており、部品のトータルコーディネート営業に注力する扶桑鋼管の最前線拠点として稼働を続けている。

中国・ASEANなど海外展開にも注力

タイとインドネシアに加工拠点を設立

 北陸センター開設後、今度はタイ進出の話が浮上。扶桑鋼管は当時、タイ向けで500万程度の売上げがあった。ただ一方で「必要なものを必要なときに必要な量を納入する」というジャスト・イン・タイム生産方式という新たなニーズへの対応も急務となっていた。「家業で終わるか事業展開を進めて企業として確立していくかの分岐点だった」と当時を振り返る江村社長。2010(平22)年、扶桑鋼管初の海外拠点となる「FUSOH TUBE PARTS THAILAND(フソウ・チューブパーツ・タイランド、FTPT)」をタイのチョンブリ県ピントン工業団地内に設立した。

 タイでの事業がまだ確立できていない時期、インドネシアも建機需要地として注目されていた。リーマン・ショック後でマイニングなど資源関係の高騰が起こり、建機の需要は旺盛だった。扶桑鋼管も小規模だがインドネシア向けに輸出を行っていた。現地へのヒアリングなどを経て12年(平24)年4月、「FUSOH TUBE PARTS INDONESIA(フソウ・チューブパーツ・インドネシア、FTPI)」をジャカルタの東に位置するジャバベカ工業団地内に設立した。

 タイは15年度くらいから黒字に転換。16年には配当を出すまでにまで成長した。倉庫建屋も8年間で2回増強するなど、事業を拡大しつつある。一方、インドネシアは発足直後に建機需要が激減。同地に進出を計画していた取引先も中止してしまった。数々の苦労はあったものの、前期(17年)10月以降は黒字に転換。今期は本稼働後の累損赤字解消を見込む。今期売上高は、FTPTで11億2千万円、FTPIで同6億円を目指す。

 これら海外事業を支えるのが「海外研修制度」。扶桑鋼管は、北陸加工センター設立当初からタイ、インドネシアからの技能実習生を積極的に採用。研修生は3年で帰国しなければならないが、日本で技術・加工ノウハウを蓄積して現地の拠点で働いてもらうスキームを確立。北陸加工センターで償却が終わった設備は順次タイとインドネシアに移設、研修生は慣れた設備を現地で使用できる。

 北陸加工センターとFTPは、設備と人材両面でFTPTとFTPIのマザー工場として機能している。

 今年4月には、住商鋼管から同社の中国現地法人である住商鋼管(無錫)の発行済株式9割を譲り受け「扶綜鋼管(無錫)、FWX」としてグループ会社化。大手建機部品メーカー向けの機械構造用鋼管、部材供給体制を構築した。中国材の発信基地としてFTPT、FTPIと連携すればある程度アジア圏をカバーできるという狙いもある。

 国内では、後継者や事業環境の問題を抱える鋼管特約店をグループ会社化していった。14(平26)年には日之出鋼管を完全子会社化。17(平29)年に扶桑鋼管へ合併している。扶桑鋼管にとって空白地域だった名古屋地区での営業強化が可能となり、東京地区で扱いのなかった土木建築部材での商権拡大も狙う。昨年7月には鋼管特約店の君島鋼管から在庫、商権を譲り受けた。「周囲から頼られる身体と業態づくりをしてきた結果。後継者問題などで行き詰まっている会社は少なくない。業界をけん引する意味合いからも、当社を頼ってくる会社については何らかの形で力になれれば」と、江村社長は語る。

部品コーディネーターとしてさらなる飛躍を

 創業から半世紀、扶桑鋼管は鋼管部品コーディネーターとして独自の業態を構築。取引先メーカーの製品・サービスづくりが高度化・複雑化する中、精度の高い加工、納入後すぐにラインに組み込むことができる完成度の高い鋼管部品の直接供給で高い評価を得てきた。とくに直近10年間は自社加工による鋼管部品提供、海外展開という新たなテーマに取り組み、約30億円の投資を行った。現在はすべての国内外事業で黒字になり、業績も順調に伸びている。

 ただ江村社長は「この50年間は扶桑鋼管のこれから行う事業の基礎づくり。さらなる飛躍のためのスタートラインにようやく立てたところ」と位置付ける。顧客ニーズの掘り起しから国内外の資材調達、自社加工での鋼管部品提供までのワンストップ対応できる「鋼管部品コーディネーター」の機能をさらに進化させる。「自分自身の好奇心で新しいことに挑戦し、それについてきてくれた従業員には本当に感謝している。会社がここまで成長できたのも、社員のおかげ。今後、社員たちがどのような新しい〝扶桑鋼管〟を作っていくのか非常に楽しみにしている」と江村社長。その眼は早くも第三の創業、次のステージに向けられている。