浅利慶太さん、原点に「いじめ」体験 ベテラン演劇記者が垣間見た素顔

浅利慶太氏=2月22日、東京都渋谷区のけいこ場  

 こわもてのカリスマ指導者、絶対君主…。亡くなった劇団四季創設者の浅利慶太さんに対する世間一般のイメージはそんなものだろうか。大作ミュージカルの初日、政治家や財界人たちを招いて開かれるパーティーで見る姿は、堂々とした存在感で周囲を圧倒し、ユーモアを交えた挨拶で人々を魅了した。大柄な浅利さんはオーラを放ち、容易に近づきがたい雰囲気を漂わせていた。

 演劇人という狭い範疇を超え、プロデューサー、経営者として劇団四季を飛躍させた手腕は誰にも真似ができなかった。反権力、反体制を標榜する演劇人が多い中で、保守政治家や財界人と付き合い、中曽根康弘元首相のブレーンとして、日米首脳会談の裏方を務め、与党政治家にさまざまな助言を行い、都知事選の候補者選びなどで“フィクサー”と呼ばれたこともあった。

 しかし、長く演劇担当記者として付き合い、近くで見た浅利さんは清濁併せ呑む俗人というよりは、繊細な傷つきやすい文学青年のような別の顔も見せていた。その原点は少年時代、戦時疎開で経験した「いじめ」だったという。子供の自殺が大きな社会問題となり始めた10年ほど前、浅利さんは東京から東北に転校していじめに遭う少年を主人公にしたオリジナルミュージカル「ユタと不思議な仲間たち」を全国で上演した。その折のインタビューで「戦時中、疎開で信州に行ったとき、ひどいいじめに遭った。戦争で食べ物がなくなり、都会と田舎の立場が逆転し、たまったうっぷんのはけ口が都会の子どもに向けられた。ユタが土地の子どもにいじめられる最初の場面は、僕自身の実体験でもあるのです」と語っていた。

 政府の教育再生会議で、いじめの問題とともに、演劇を教育に取り入れることの重要性を熱心に提唱。安倍首相にも「ユタと不思議な仲間たち」を見せた。

 「欧米では演劇を学校の正課に取り入れている。演劇をやることで会話やスピーチの能力が鍛えられる。民主主義の世の中で話す能力が低下したらえらいことです。それに、絵が好きな子は美術をしたり、機械いじりが好きな子は照明をやったりと、それぞれの能力を生かし、協力して一つの舞台を作るという意味で、演劇は学校教育に大いにプラスなのです。それができなかったのは、教育関係者に演劇人に対する根強い偏見があり、演劇人もイデオロギー中心の左翼系が多かったからです」

 「左翼嫌い」を公言してはばからなかったが、そのルーツは異なっていた。大叔父は明治、大正時代に劇作家の小山内薫とともに「自由劇場」を立ち上げ、演劇革新運動を担った歌舞伎俳優の二代目市川左団次。自身も幼いころ、子どものいなかった左団次に預けられていたことがあったという。父の浅利鶴雄は日本の新劇運動の原点となった築地小劇場の同人で、戦前にソ連で歌舞伎を上演した左団次一座にも同行している。その原点は昭和初期の新劇だったが、共感していた左翼運動から、いつしか心は離れていった。運動の中で最愛の姉を失った心の傷があったのかもしれない。

 「キャッツ」ロングラン成功をきっかけに日本を代表するミュージカル劇団としての地位を確立したが、自身はそのことに決して満足してはいなかった。海外オペラや長野五輪開閉会式の演出など華やかな活躍で脚光を浴びる一方、戦争の悲惨さを訴えた「ミュージカル李香蘭」では、日本の戦争責任に真正面から取り組み、「石を投げられる覚悟で」中国公演を行った。

 訃報を聞いて、四季で育った俳優たちの追悼の声が次々と寄せられた。浅利さんは才能のある若者をオーデションで選び、舞台のプロとして活躍できるために完璧なまでの厳しい稽古をして彼らを育てた。鹿賀丈史さん、市村正親さんら四季出身の役者たちの存在なしには、今や日本のショービジネスは成り立たない。しかし、彼らは決して四季を円満に退団したわけではない。「去る者は追わず」というのが浅利さんの口癖だったが、スター扱いを求めて劇団を辞め、独立した役者は勘当扱いで、二度と劇団の敷居はまたがせなかった。手塩にかけて育てた若者たちに裏切られたという思いがあったのかもしれないが、それも今思えば子供のいなかった浅利さんならではの“子離れ”の形だったのだろう。

 80歳を超え、劇団経営の一線から身を引いた浅利さんは、最晩年を舞台演出に専念した。浅利さんのもとに、四季を辞めたかつての教え子たちも集まってきた。最も愛したのは東京・浜松町の四季劇場の中で最小の「自由劇場」だ。それは、二代目左団次の演劇革新運動にちなんで名付けられた。浜松町周辺の再開発で、周囲の四季劇場は次々と取り壊されて移転した。小さな自由劇場だけが浅利さんの思いを象徴するかのように更地にポツンと残っている。 (元共同通信記者、演劇評論家 石山俊彦)

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