『天才はあきらめた』山里亮太著 赤メガネの向こうに光る愛憎

 山里亮太は、「愛」と「憎」でできている。

 彼の中では「愛」と「憎」が溶け合わないまま渦を巻き、その「中間」を知らない。というか、彼の「愛」はそもそも「憎」からできてたりする。山ちゃんは「憎」をガソリンにして燃えに燃え上がり、ふと見ると、その燃えカスの中に、ころりと「愛」が転がっていたりする。

 2006年に発売された自伝本『天才になりたい』を、2018年時点の著者が大幅に加筆して文庫化したのが本書だ。「モテたい」欲求をこじらせていた頃。「天才芸人」に憧れて、各方面に向けて尖っていた頃。ライバルの快進撃に歯噛みしていた頃。相方の大ブレイクに拳を震わせていた頃。それらのエピソードが、彼自身の率直な眼差しで紐解かれる。

 何しろ彼の自己分析力にのけぞる。それから描写力にも。よく出てくる単語は、まず「努力」である。自分には「才能」がない(と本人は思っている)からこそ、すべての退路を断つ。なまける理由も断つ。「自分はどうせダメだから」も封印。自分を卑下してへこむことは、慎ましやかな顔をしているけど、実は成長から遠ざかるための特急列車だ。思いついたことは、ネタであろうと人生訓であろうと、憎きアイツへの決定的な復讐案であろうと、山ちゃんはどんどんノートに書いていく。ぐんぐん積み上げられていく、ノートの山。

 本書のあるページには、彼がノートに書きなぐった言葉がそのまま載っている。ペンを動かす間も惜しいみたいに、叩きつけられた言葉たち。逃げを嫌い、妥協を嫌い、馴れ合いを嫌う。なにがしかの修行僧みたいに。

 苦いエピソードも語られる。自分と同等のストイックさを周囲にも求めてしまって、破綻した人間関係のいくつか。自分を悔いて、自分を立て直し、やっと頂点を味わったら、待っていた低空飛行の日々。

 山ちゃんはどうもこの本を、かつての自分と同じように、負のスパイラルにもがいている誰かに向けて書いている気がする。彼は人生の浮き沈みを、きわめて戦略的に分析している。こういう穴に落ちたら、こうやって這い上がればいい。暗闇に飲まれたら、その暗闇を燃料にして、機が熟したら、燃やせ、燃やせ。その炎で世界中を明るく照らせ。別の場所で別の穴に落ちている、別の誰かの心を照らせ。本書はまさしく、山ちゃんがころりと残した「愛」のかたまりだ。

 巻末の、「オードリー」若林正恭による解説もふるっている。「天才とは、尽きない劣等感と尽きない愛のことなのだから」。面と向かっては言わないけれど、書籍という場を借りて贈られる、少しの屈折と、とびきりの敬意。どんなイケメンのきらめいたグラビアより、私にはこちらの方が、ずっと美しいと思えてならないのだ。

(朝日新聞出版 620円+税)=小川志津子

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