映画「せんせい」モデル 被爆者 山口竹子さん 温かい記憶 今なお 51年前、白血病で死去

 51年前の7月22日、1人の被爆者の女性が長崎市内で亡くなった。元中学校教諭の山口竹子さん。急性骨髄性白血病だった。32歳。短くも最期まで思いやりにあふれた人生は、平和の大切さを訴える映画「せんせい」(1982年製作)のモデルとなり、ゆかりのあった人々に今なお温かい記憶を呼び起こす。山口さんの足跡をたどった。
 67年7月21日。暑い日だった。県内の大半の小中学校はこの日から夏休み。長崎市立淵中教諭の菅直子さん=当時(33)=は朝から取り掛かっていた1学期の残務整理を急きょ切り上げ、長崎大医学部付属病院へと急いでいた。入院していた親友の山口竹子さんが「危篤」と家族から学校に電話があったからだ。
 病室に入ると、山口さんの姿は見舞いに訪れた1週間前とはすっかり変わっていた。ベッドから起き上がれず、顔は腫れ上がり、皮膚は赤みを帯びていた。しきりに首の痛みを訴え、手足には輸血と輸液の針が刺さっていた。
 夕方、病室を後にしたが、その夜は不安でほとんど眠れず、翌朝、病院に向かった。病棟につながる廊下を歩いてきた主治医に病状を尋ねると、疲れた表情で少し菅さんを見詰め、低い声で「亡くなられました」と告げた。
 霊安室で山口さんと対面した。眠ったように静かな表情だった。眉や唇に濃い化粧が施され、頬に手を触れると温かみが感じられた。実感は湧かず、涙も出ない。ただ、何かを話し掛けたかったが、言葉にならず、ずっとそばに立っていたかった。

 山口さん死去の電報を静岡県清水市(現静岡市清水区)で受け取った人がいた。山口さんが長崎大学芸学部(現教育学部)卒業後、美術などの教諭として初めて赴任した西彼外海村立(現長崎市立)黒崎中の教え子で、当時造船の職工だった辻村千賀良(ちから)さん=当時(24)=。1週間ほど前に長男が生まれたと、山口さんに電報を打ったばかりだった。
 小学5年生までに両親や2歳上の姉を亡くした辻村さんを、山口さんは中学卒業後も支えた。職工の日当は千円。生活は楽ではなく、香典3千円を送るのが精いっぱいだった。「もっと偉くなりたい。偉くなって竹子先生に恩返しをしたい」。妻と長男がいる借家の裏で、1人泣いた。
 数日後、長男に着せるケープが届いた。山口さんが「千賀良君にお祝いを」と、家族に託したものだった。

◎ズーム/映画「せんせい」

 1972年の西彼外海町(現長崎市)黒崎地区などを舞台に、五島から赴任してきた小学校教諭、山口竹子先生と児童の触れ合いを描いた作品。ある日、先生が突然倒れ、長崎大医学部付属病院に入院。先生は見舞いに訪れた教え子たちと稲佐山に登り、27年前に原爆が投下された長崎の惨状を語り始めた。先生は母親と一緒に焼け野原を歩いていた。原作は72年刊行の原爆読本「夾竹桃(きょうちくとう)の花さくたびに」(県原爆被爆教師の会平和教育資料編集委員会編)。長崎映画センター(現県映画センター)の企画。製作は映像企画、監督は大澤豊さん、主演は女優の五十嵐めぐみさん。82年11月から県内で上映が始まり、83年12月時点で小中学校など344カ所で14万2554人が鑑賞。県外でも上映された。

生前の山口竹子さん(黒崎中時代の教え子だった藤井ノリ子さん提供、撮影日時・場所は不明)

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