<せんせい 山口竹子さん>“毒”の夾竹桃 「病気ようなるなら食べたい」 入院中、妹に打ち明ける

 1945年8月、10歳の山口竹子さんは長崎市南部で、父が勤める造船所の社宅に両親ときょうだい4人の家族6人で暮らしていた。妹の横関文子さん(78)によると、山口さんは9日の原爆投下時、防空壕(ごう)の外で幼い弟を背負ったまま爆風で倒されたという。約1週間後、「米軍が攻めてくる」と言う父の意向で、母と4人の子どもは父の実家がある西彼瀬戸町板浦(現西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷)に避難した。現在の道路でも50キロ以上の道のり。長崎市の爆心地付近も通り、3日がかりでたどり着いた。
 戦後、山口さんは長崎西高、長崎大を卒業。55年度から4年間、黒崎中に美術や国語の教員として勤めた後、西彼伊王島村立(現長崎市立)伊王島中に2年間勤務した。その後、教員を退職。「デザインの勉強をする」ため、いったん上京したが、63年から長崎で産休補助の教員を始めた。
 西高時代からの友人で、長崎大で共に学んだ菅直子さん(84)が、淵中で66年4月から約3カ月間の産休に入る時も、代わりに教壇に立った。この時、自らの発案で担当の2年生全員と高さ約2メートル、横幅約20メートルの長方形のセメント彫刻の制作に取り掛かった。太陽の光を浴びて子どもたちが躍動するデザイン。在任中には半分しかできず、復帰した菅さんが引き継いで夏休みに完成させた。現在も淵中のグラウンドに残っている。
 翌年の67年3月、長崎大医学部付属病院に入院したと、山口さんから菅さんに手紙が届いた。見舞いに訪れると「へんとう腺の出血してさね、魚の腐ったごたる臭いのする」ため、近所の病院で診てもらうと大学病院で精密検査になったという。結果は、原爆の放射線で発症リスクが高まるとされる白血病だったが、山口さんには別の病名が告げられた。だが、山口さんは疑い、カルテのドイツ語を読もうと、辞書を持ってくるよう見舞客に頼んでいた。
 輸血に多くの「新鮮血」が必要になり、長崎市教職員組合婦人部が中心となって教員に献血を呼び掛けた。知人もそうでない人も大勢が応じ、日程を決めて献血に訪れた。
 映画「せんせい」の中で、病室を訪れた教え子の男の子とその妹に山口先生が「先生はね、吸血鬼になってしもうたとよ。人の生き血ば吸うて生きとるとやもんね」と語るシーンがある。実際は菅さんにそう言って笑ったが、表情には寂しさがにじんでいたという。
 また、映画では主治医に「夾竹桃(きょうちくとう)。あいは毒だと言われとりますけど、もし病気がようなるもんなら毒でもいいから食べたいと思ったこともあるんです」と打ち明ける。これも妹の文子さんが見舞った際、大学病院の庭で夾竹桃を見ながらポツンと話したという。文子さんは返す言葉がなかった。
 菅さんによると、山口さんは学生時代に恋をしたが、結婚には至らなかった。入院後間もない4月中旬、菅さんに宛てた手紙の中でこうつづっている。「もう一度、素晴(ら)しい人にめぐり合いたいナー。素晴(ら)しいとは一緒にいて気にならない人位でいいよ」
 しかし、入院からわずか4カ月でこの世を去った。亡くなる前日の7月21日夜、意識が混濁し始めたころ、主治医に「先生、生き…ね」と何度も言ったという。主治医は1年後の手記で「日一日と悪化してゆく状態の時でも、決して『元気にして下さいね』と言って主治医を困らせることはなさらなかったけれども、『生き…ね』は私には『生かしてくださいね』という彼女の最後のつつましやかな願望にも聞こえ、複雑なことばとして今も心の中に残っています」と書き、その死を悼んだ。

◎ズーム/夾竹桃

 夏に花を咲かせ、名前は葉が竹に、花が桃に似ていることに由来。枝、葉、花などに有毒成分を含む。生命力が強いため街路樹などとして植栽され、原爆投下直後に咲いていたことでも知られる。原爆反対を訴える「夾竹桃のうた」もあり、被爆地の広島市は「市の花」にしている。

美術教諭だった山口さんが描いた油絵を前に思い出を語る友人の菅さん(右)と山下さん=長崎市内の菅さんの自宅
1966年、山口さんが生徒たちと一緒に制作したセメント彫刻=長崎市梁川町、淵中
ピンクの花を咲かせた夾竹桃=長崎市内

© 株式会社長崎新聞社