長崎大水害から36年 西日本豪雨被災者へ あの日の自分重ねる 同じ心情 怖かったろうね 声を掛け合い 立ち直って

 死者・行方不明者299人を出した1982年の長崎大水害は23日で発生から36年となった。今月上旬の西日本豪雨の死者は200人を超えている。大水害で地域が甚大な被害に遭った長崎市の住民は、報道される豪雨の被災者の姿を、当時の自らと重ねて胸を痛めている。
 西日本豪雨を伝えるテレビのニュース。氾濫した川に流された家屋、土砂に飲み込まれた集落…。伊良林3丁目の冨工(とみく)妙子さん(83)は、高齢女性が「80年間生きてきてこんな災害は初めて」と語る姿を印象深く記憶している。「同じ心情になれる。経験のないことを目の前にすることはすごく恐怖。怖かったろうね」。自らの体験と重なり、被災地に思いをはせる。
 1982年7月23日の夕方、小学6年の息子が通う市立伊良林小のグラウンドにいた。次第に雨脚が強くなる中、複数の児童と保護者が2日後の球技大会に向けて練習していた。
 「雨が降っているから早く帰ったほうがいい」。心配して見に行った冨工さんがそう声をかけると、「あさってまで時間がないからもう少し練習して帰る」と保護者の一人が返してきた。その日の夜、大雨でその保護者が亡くなったことをテレビニュースで知った。
 翌日から校長と校区内の被害状況を見て回った。崖や家屋、道路は崩れ、橋も流されていた。両親と共に亡くなった児童の遺体の身元確認もした。同校では児童3人と保護者7人が犠牲になった。
 「荒れ果てた中島川を清流に戻してホタルを飛ばし、子どもたちに命の大切さを考えてもらおう」。翌年「伊良林小ホタルの会」を発足した。それから毎年6月には児童と一緒に中島川へ飼育したホタルを放す。淡い光を通じ、子どもたちに命の大切さを伝え続けている。
     ◇◇◇ 
 当時、三菱重工長崎造船所社員だった本河内3丁目の金谷繁臣さん(78)。あの日は松が枝町で自身が出馬する市議選に向けた激励会が開かれていたが、夕方からの大雨を不安に感じ、1時間で会を閉じた。
 大雨で路面電車は動かず、仕方なく自宅まで歩いた。自宅は無事だったが、周辺には土砂や大量の水が流れ込んでいた。「ひどすぎて手がつけられなかった。みんな命からがら逃げていた」。同僚の中には家族を亡くしたり、家が壊れたりした人もいた。
 4、5日後に地元などで給水車が通れるようになり、同僚とともに断水した地域に給水活動をして回った。活動は1週間にわたった。「水が来たということで喜ぶ顔が印象的だった。疲れも吹き飛んだ」と振り返る。
 金谷さんは経験を踏まえ、西日本豪雨の被災地域に向けてこう語る。「災害時に一番大切なことは、とにかく声を掛け合うこと。今何が必要か、何ができるか聞くことが大事。とにかく早く立ち直ってほしい」

西日本豪雨の被災地に、自分の体験を重ねて語る冨工さん
被災地域について声を掛け合う大切さを語る金谷さん

© 株式会社長崎新聞社