抽象画の巨匠フラビオ・シロー=『雨月物語』をテーマに制作=東京の個展で自らのルーツを認識

フラビオ・シローと『雨月物語』をテーマにした作品

 ブラジルの代表的な抽象画家の一人、フラビオ・シロー(89、北海道)。サンパウロ・ビエンナーレに第一回目から参加するなど、50年代から現在に至るまで国内外で高い評価を受けている。「日本人だからって日本画を描いても意味が無い」と語るフラビオ・シローに自らのルーツや、日本が作品に与えた影響を取材した。
 今月からサンパウロ市のギャラリー「Pinakotheke Sao Paulo」で個展が始まった。一般公開に先立って7日に行われたオープニングセレモニーで、フラビオ・シローは集まった招待客の前で棒状の木を打ち鳴らした。「カンカンカン」と小気味良い音がギャラリー内に響いた。
 フラビオ・シローは「父が遺したパウ・サントの木片です。歌舞伎で始まるときに拍子木を鳴らすでしょう。あれをマネしたんです」と照れた様子で話した。
 フラビオ・シローがブラジルに渡ったのは1932年、4歳のときだった。歯医者の父と母、3人兄とアマゾンのトメアスーに入植した。読書家の父親がたくさんの本を持ち込み、母親が琴と三味線の名手だったため、文学と音楽に溢れた文化的な家庭だった。
 トメアスーで7年過ごした後、サンパウロに移り、15歳ごろから絵を描き始めた。画家で文筆家の半田知雄は、フラビオ・シローが自宅に訪れスケッチをしたという日記を残していて、「単調だが威力のうかがえる絵だ」とコメントしている。
 戦後になると日系画家グループ「聖美会」が活動を再開し、19歳のフラビオ・シローも加わって本格的に制作を始めた。このころの絵にサッカーの試合の様子を描いたものがある。手前には白熱する観客ら、中央にフィールドでボールを追う選手たち、奥にはコカ・コーラの広告が描かれている。観客席に画材を持ち込むわけにはいかないので、記憶を頼りに描いた。
 フラビオ・シローは「日系の画家たちは風景画を描くことが多かったが、僕はサッカー場とかサンバグループとかブラジル人だらけのところに行って題材にした。ブラジル人の生活に興味を持っていた」と述懐する。
 1950年代前半には個展の開催やサンパウロ・ビエンナーレへの出品など目覚ましく活躍し、飛躍の時期となった。53年に渡仏して美術学校で学び、パリ画壇で活動。大胆な筆遣いと強烈な色彩による迫力ある画風を確立し、60年代にはブラジルを代表する抽象画家として知られるようになった。
 一方、日本でその名が広く知られるのは、ずっとあとのことだった。80年代に初めて作品が紹介されたが、グループ展への出展で注目度が低かった。認知度が高まる契機となったのが、93年に東京・原美術館で開催した「フラビオ・シロー展 熱い魂の叫び」だった。
 多くのメディアで取り上げられた中で今でも覚えているのが、ある新聞が「ブラジルの新しいムードだが、線のなかに日本的なものがある」と評したことだった。「僕の作品に日本を題材にしたものはなかったし、日本的な技術も使っていない。意図しなくても日本人らしさがにじみ出ていたんだと思う」と語る。フラビオ・シローにとって東京での個展は、自分のルーツを認識する意義深いものになった。
 84年にリオに定住してからはパリとリオにアトリエを持ち、来月90歳を迎える現在も制作に打ち込んでいる。2014年には溝口健二監督の映画『雨月物語』をイメージした作品を描いた。骸骨のようなものが画面上部を占拠した幻想的な雰囲気の一枚だ。「今年は日本移民110周年で、自分の中の日本をさらに考えるようになった。拍子木を叩いたように自分なりのやり方で表現したい」と意欲を見せた。
 個展はギャラリー「Pinakotheke Sao Paulo」(Rua Ministro Nelson Hungria, 200 – Morumbi)で8月11日まで開催される。平日は午前10時から午後6時まで。土曜は午前10時から午後4時まで。日曜休館。40年代から最近までの絵画作品26点と写真、造形作品などが並ぶ。

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