激震!加入直前で「強奪」された10名の選手

サッカー界に激震が走ったブラジル人FWマウコン(ボルドー)によるバルセロナへの電撃移籍。

**[▼バルセロナ、仰天の強奪移籍!マウコンを57億円で獲得決定**](https://qoly.jp/2018/07/25/malcom-signs-barcelona-iks-1)

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マウコンは前日、ローマへの加入合意が明らかとなっていたが、わずか1日でそれを覆しカタルーニャ行きを決断した。

煮え湯を飲まされた形のローマは訴訟を検討しているとも伝えられており、両クラブの関係は泥沼化する可能性も出てきた。

そんな仰天ニュースを受け、『Mirror』では過去の移籍市場で発生した「強奪劇」を特集している。ご紹介しよう。

ウィリアン

チェルシー (←トッテナム)

2013年、トッテナムは当時ウィリアンが所属していたアンジ・マハチカラと移籍金3000万ポンド(約43億7000万円)で合意し、ノース・ロンドンでのメディカルチェックも完了していた。

しかし、アブラモヴィッチオーナーがアンジのオーナーに電話をかけると、ウィリアンはブルーズへ行ってしまったという。ダニエル・レヴィー会長にとってはなんとも迷惑な結末となってしまった。

アレクシス・サンチェス

マンチェスター・ユナイテッド (←マンチェスター・シティ)

昨年夏、元アーセナルのサンチェスはマンチェスター・シティ移籍のサインに釘付けになっていた。この取引は不成立となったが、今年1月、ペップ・グアルディオラ監督との再会が期待されていた。

しかし、彼の給料がシティにとっては高額過ぎたと伝えられており、ユナイテッドがアーセナルにヘンリク・ムヒタリアンを送り込むと、ライバルチームの目の前でサンチェスを“盗んで”しまったのだ。

ペドロ

チェルシー (←マンチェスター・ユナイテッド)

ルイス・ファン・ハールがユナイテッドを率いていた2015年、彼のお気に入りとも言えるペドロと契約する予定だった。しかし、ペドロとの契約に難航していると、チェルシーの横槍を許してしまった。

最終的にペドロの決断に影響を与えたのは、チェルシーの執拗な追跡だったとも言える。

ディミタール・ベルバトフ

マンチェスター・ユナイテッド (←マンチェスター・シティ)

2008年、スパーズのベルバトフは移籍金3000万ポンド(約43億7000万円)で合意し、マンチェスター・シティへと移籍するはずだった。しかし、ファギーことアレックス・ファーガソンがそれを認めなかった。

マンチェスター空港でベルバトフと会うと、代わりにユナイテッドに来るよう説得した。ファギーによって煽てられたベルバトフは、すぐにレッド・デヴィルズの一員となったのだった。

エマニュエル・プティ

アーセナル (←トッテナム)

1997年、プティはトッテナムとの移籍交渉のためロンドンに来ており、当時の会長アラン・シュガーと会っていた。

アーセナルはスパーズの意図をキャッチすると、モナコ時代の恩師アーセン・ヴェンゲルも彼と契約したがっているとプティに伝えた。彼は「決断するには時間が必要だ」と伝えるとタクシーで去った(タクシー代はスパーズ持ちだった)のだが、そこでヴェンゲル監督の自宅に寄り道した。

そしてプティはガナーズと契約し、ヴェンゲル監督とデイヴィッド・デイン会長を納得させたのだった。

ロビーニョ

マンチェスター・シティ (←チェルシー)

レアル・マドリードで嫌な思いをしていたロビーニョは、2008年にロンドンへの移籍を希望していた。

チェルシーは明らかに移籍先の候補となっていたはずだが、大物選手の獲得を希望していたマンチェスター・シティが夏の移籍マーケット最終日に3250万ポンド(約47億5000万円)のオファーを提示したのだ。

チェルシーにとっては明らかに不意打ちだったが、それはロビーニョにとっても同じだった。彼はチェルシーのオファーを受け入れたとメディアに伝えていただけでなく、彼の家族は「ユナイテッドと契約した」と思っていたという噂まであったようだ。

ポール・ガスコイン

トッテナム (←マンチェスター・ユナイテッド)

1988年、ガッザはマンチェスター・ユナイテッドへの移籍が決まる寸前だった。

マルタで休暇をとっていたアレックス・ファーガソン監督も、ニューカッスルMFが移籍合意にサインしたと信じていたようだ。しかしスパーズがやって来ると、彼の家族に新居を、父には新車も提供すると言い出したのだ。

そして彼はロンドンのクラブと契約することになった。ファギーはおそらくご立腹だっただろう。

ジョン・オビ・ミケル

チェルシー (←マンチェスター・ユナイテッド)

これはユナイテッドにとって恥ずかしい出来事だった。

2005年、ミケルはノルウェーのリンでプレーしていたが、ユナイテッドは代理人を通さずに移籍金400万ポンド(約5億8000万円)での契約を成立させた。

ミケルは、この移籍の会見でユナイテッドのシャツを着ていた。しかし、チェルシーがミケルの代理人と交渉を行うと、彼が「ユナイテッドへの加入を強要された」と主張し、代わりにミケルはチェルシーへの移籍を突然決意したのだった。

リンはこの状況について告訴し、解決するまでの間、ミケルはリンに戻ってプレーしなければならなかった。

2006年、チェルシーがリンとユナイテッド双方に補償金を支払ったことにより決着、ミケルはスタンフォード・ブリッジにやってきたのだった。

ジョルジーニョ

チェルシー (←マンチェスター・シティ)

マンチェスター・シティは、ナポリからMFジョルジーニョがやって来ると確信していた。グアルディオラ監督も、ヤヤ・トゥレの後釜としてこのイタリア代表MFを評価していたようだ。

しかし、ナポリ時代に師弟関係だったマウリツィオ・サッリ監督がチェルシーに加入したことで、ジョルジーニョは突然二重交渉を開始したのだ。

チェルシーは、ナポリに対しより多くの金額を提示することを決定。これは新たなスタートを切るサッリ監督のチームへの報酬と見られている。そしてシティは、彼らがやって来ると確信していた選手を失ってしまったのだった。

ロイ・キーン

マンチェスター・ユナイテッド (←ブラックバーン・ローヴァーズ)

1992-93シーズンにノッティンガム・フォレストの降格が決まった後、ロイ・キーンはクラブを去り、ケニー・ダルグリッシュ監督率いるブラックバーンに移籍すると見られていた。

両者は移籍に合意していたが、書類手続きのミスで1週間経過してしまった。そこへアレックス・ファーガソン監督が割って入り「ユナイテッドのためにプレーして欲しい」と頼み込んだ。

説得されたキーンは、当時の英国史上最高額となる370万ポンド(約5億4000万円)の移籍金でユナイテッドに加入することになったのだ。

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