2020年東京五輪の競技日程の大枠が報じられ、競泳決勝が午前に決まったことへの「違和感」も伝えられた。巨額の放映権料を支払う米テレビ局の意向が反映され、国際水泳連盟が承認した。開催国の都合ではなく、米国テレビのゴールデンタイムに合わせられたことで、1984年のロサンゼルス大会以来、問われてきた五輪の「商業主義」について考えさせられる。かつて、国際オリンピック委員会(IOC)副会長としてお金に左右されない五輪を目指してきた、ある日本人メダリストについて取り上げたい。(共同通信=柴田友明)
名スイマー
20年近く前、86歳で亡くなった元IOC副会長、清川正二さん。名前を紙面で見る機会はめっきり少なくなったが、五輪の商業主義路線に警鐘を鳴らし続けた人物として知られる。戦前の「水泳ニッポン」を代表する選手で、1932年のロス五輪100メートル背泳ぎで金メダル、その次のベルリン五輪同種目で銅メダル。総合商社の社長を経て1969年からIOC委員となった。
ブランデージ、キラニン、サマランチと3代の会長と接し、変貌する五輪を組織の中で見届けてきた。米ソのボイコットに揺れたモスクワ、ロスの両五輪で副会長として、政治から独立した五輪を模索した。米国に迎合してモスクワ五輪に参加しなかった日本の姿勢を強く批判した。著書では「日本のスポーツ界はボイコットにより、過去に築いた光輝ある歴史や世界の信頼をつぶす大きな汚点を残した」と記している。
がけっぷち
恥ずかしながら、筆者がその業績を知ったのは亡くなった後、ご家族や水泳界で清川さんの後輩に当たる古橋広之進さん(故人)から話を聞いたときだった。
四半世紀前、共同通信が配信した企画記事「白熱する五輪市場」(1992年6月16日)では、放映権料の高騰化について、清川さんは「けた違いの金が入ってくるようになったため金銭感覚のバランスを失う傾向が、上はIOCメンバーから下は選手まで浸透してきた。巨大化と、行き過ぎた商業主義化でオリンピックは今、がけっぷちに立たされているんです」と述べている。こうした自らの考えを気後れすることなく、歴代のIOC会長にも伝えてきたという。
冒頭の米テレビ局の意向に沿ったというケースは実は過去にもあった。1998年長野冬季五輪の開会式は、米国時間の夜に合わせた午前11時から行われた。「夜なら光を使って、いろんな仕掛けができた」。当時五輪プロデューサーを務め、先日亡くなった浅利慶太さんはそう嘆いたという。
そういった五輪の商業主義化に流されず、アマチュアリズムの五輪の精神を唱えてきた清川さんの強さは何だったのだろうか。
金メダルを獲得したのは名古屋高商(現名古屋大)時代、その後商社マンとして働きながら退社後に練習を積んで技量を維持して銅メダルを取ったのには、実に驚くべき努力があったと言える。しかも「水泳のことで会社には迷惑をかけない」と宣言していたという。
今のスポーツ界ではそういった「二刀流」は受け入れられないかもしれないが、五輪を育んできた清川さんの言動に、古きよき時代のオリンピアンの魂、アマチュアリズムの神髄を感じる。