被爆者のために働きたい スペインで原爆写真を見て来日 修道士 アントニオ・ガルシアさん 大事なことは対話

 「原爆で傷ついた人のために働きたい」。68年前の夏、戦争の爪痕が残る日本に、スペインから1人の青年がやって来た。日本二十六聖人記念館(長崎県長崎市西坂町)前館長で修道士のアントニオ・ガルシアさん(89)=長崎市在住=。以来、広島、長崎で貧しい人々に寄り添い、平和のために祈り続けてきた。

 1929年、スペイン・アンダルシア地方の小さな村で生まれた。36年ごろ、同国で内戦が激化。多くの人が殺され、貧しさにあえいだ。農産物を育てても盗まれるため父が夜、銃を肩に掛けて畑の見張りをしていたことを覚えている。

 6人きょうだいの5番目。敬虔(けいけん)なカトリック信者だった母の影響から、修道士を目指し15歳でイエズス会に入り、修練院へ。48年に従順、貞潔、清貧の初誓願を立て、人のために働くことを誓った。大きな修道院に移り、受け付けの仕事などのほか、世界の宣教師の情報を載せた雑誌を1年分ずつ製本する役割を担った。

 ある日、雑誌の衝撃的な写真に目を奪われた。真っ黒に焼けた人、貧しい子ども、ぼろぼろの建物…。広島、長崎の原爆被害を伝えていた。「何ができるか分からないけれど、生涯をささげて、どうしても日本で働きたいと思った」

 日本派遣を望む手紙を管区長に書き、約半年後に決まった。プロペラ機でカイロ、マニラを経由し50年8月15日、羽田に到着、すぐ広島市へ向かった。被爆から5年。破壊された街並みに再びショックを受けた。壊れたコンクリートの壁ばかりが目立ち、大きな川の両側の土手にはバラックが立ち並んでいた。

 被爆当時、救護活動の拠点の一つとなった市内の長束修練院(爆心地から4・5キロ)で、8年間活動した。修練院長は後のイエズス会総長、故ペドロ・アルペ神父。「被爆当時は傷病者であふれ、病院のようだったと聞いた。若い私にいつも温かく接してくれた」

 その後、関東の修道院で副院長などを務め、70年に長崎市に赴任。イエズス会施設「黙想の家」(長崎市立山5丁目)設立などに尽力した。被爆から25年。まだ貧しく簡素な建物が多かったが、だんだんときれいになっていった。

 長崎県内のさまざまな宗教者でつくる「県宗教者懇話会」が72年に設立され、数年後に会員に。転勤はあったが、長崎にいる間は同懇話会の会合や原爆殉難者慰霊祭に参加し交流を重ねた。

 「仏教、神道、カトリックなどの宗教者が協力して原爆で亡くなった人々や平和のために祈っている。やはり心は同じ“きょうだい”だと感じます」

 来日して68年。平和のために大事なことは、対話だと言う。「互いに認め合って許すこと。修道院も家族も小さな共同体。身近なところから平和にしないとね」

1948年ごろ、スペインの修練院の門前に立つガルシアさん(左)と父フランシスコさん(ガルシアさん提供)
「母国スペインで原爆被害の写真を見て来日を決意した」と語るガルシアさん=長崎市西坂町

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