被爆の地獄、語らねば 18万人に証言 広島市の梶本さん 

原爆ドームの前で、平和への思いを語る梶本淑子さん=広島市

 炎天下にたたずむ広島市の原爆ドーム。終戦から73年目の夏、この地を訪れた被爆者の梶本淑子さん(87)=同市=が静かに語った。「ここで一体、どれだけの人が死んだか…。悲しくなります」

 1945年8月6日。あの日、梶本さんは爆心地から2・3キロの工場にいた。当時は同市の安田高等女学校に通う14歳。学徒動員で飛行機のプロペラ部品を製造していた。

 午前8時15分。真っ青な光が、窓から刺すように工場内に入ってきた。「爆弾だ」と直感し、機械の下にもぐり込んだ。地球が爆発したかのようなごう音。体が吹き飛ばされ、気を失った。

 「助けて」「痛いよ」…。しばらくして友人の叫び声で意識が戻った。がれきの下敷きになり、身動きが取れない。「早く抜け出さないと、火事になって焼かれてしまう」。恐怖の中、何とか中からはい出した。

 熱線で全身の皮がめくれ、垂れ下がった人々が、まるで幽霊のように水を求めてさまよう。梶本さんは右腕にガラス片が刺さったまま、下敷きになった友人を助けた。担架に載せて運ぶ際、死体を踏んだ時のぬるっとした感触が忘れられない。

 放射線を浴びた父は1年半後に血を吐いて亡くなり、母も原爆症で入退院を繰り返した。梶本さんは教師の夢を諦め、母の治療費と3人の弟を養うため、親戚の衣料品店で必死に働いた。「原爆が落ちた日は地獄。でも、生き延びた人間も地獄でした」

 1957年に結婚。2人の子どもを授かったが、長く記憶を語ることはなかった。孫から「原爆のことを、話さずに死んじゃいけん」と背中を押され、2001年に証言を始めた。年130回以上、これまで伝えた相手は18万人を超える。

 厚生労働省によると、全国の被爆者は15万4859人(3月末現在)。被爆者健康手帳の交付が始まった1957年度以降で最少となり、平均年齢は82歳を超えた。被爆者の高齢化は著しい。

 「原爆がいつ、どこに落ちたのか。知らない若者が増えている」。19年前、がんで胃の3分の2を切除。やせ細った体で、記憶の風化を防ごうと証言を続ける。

 昨年7月、国連で「核兵器禁止条約」が採択。核廃絶を唱えながら、米国の核に守られた日本は署名していない。「なぜ、唯一の被爆国が参加しないのか」。梶本さんの疑念は晴れないままだ。

 「青春も、人生も奪った原爆。あの地獄を繰り返してはいけない」(社会部・臼杵大介)

(2018年8月4日付 熊本日日新聞朝刊掲載)

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