近代横浜築港の<暗い>夜明け~英蘭技師の暗闘、政府間対立、防波堤崩壊~ 明治期、欧米列強の日本ビッグ・プロジェクトへの野望と失態

イギリス人お雇い技師パーマー(横浜開港資料館蔵)

私は横浜国立大学の非常勤講師として横浜市に出向く際、かねてから関心のあった明治初期の横浜築港の経緯を調べてみた。横浜市立図書館、横浜開港資料館などに出向き資料収集に当たった。横浜築港に関心を持った最大の理由は、近代日本「港湾の父」廣井勇(東京帝大名誉教授)が名著「日本築港史」の中で初期横浜築港のあり方を外国人お雇技師に振り回された「失敗例」として手厳しく批判していることにあった。以下、「日本築港史」や横浜市立大学教授寺谷武明氏の論文「横浜築港の黎明」などを参考にして、120年ほど前の無残な「失敗」の要因を検証してみる。

開国後の築港の急務

横浜は今日日本を代表する国際港都市である。嘉永6年(1853)ペリー率いるアメリカ東洋艦隊の軍艦(黒船)が浦賀沖に現れてから6年後の安政6年(1859)6月、横浜は日本最初の開港場の一つとして外国に開港された。だが崩壊寸前の幕府に外国貿易用の新しい港づくりの財力はなく、その後を受けた明治政府も海運業育成に積極的だったが、膨大な資金を確保する港湾築造まで手を回す余裕はなかった。開港後、30年の長い間貿易港にふさわしい施設を持たず、外航船は天然の地形を利用し湾内に仮泊して艀(はしけ)で荷役をするという国際港には程遠い哀れな状態のままだった。

明治5年(1872)東京~横浜間に鉄道が開通し、内外貿易商人の横浜移住が盛んになり、海岸の埋め立て造成が進んだ。市街地が形を整え、商業施設も体制が備わってくると、港湾施設の不備は誰の目にも明らかになった。その整備が急務となった。

明治7年(1874)、政府は築港の調査・計画の予備的作業として、まず内務省お雇工師のオランダ人ファン・ドールンに命じて、同年横浜港最初の港湾調査を行わせた。ドールンは、港の東南側に係船埠頭を兼ねた防波堤をつくり、その内側に桟橋を設ける案を復命した。翌8年、工部省燈台寮お雇技師イギリス人ブラントンは、東波止場から沖へ延長1.5mの埠頭を設け、両側に大船を係留させる計画を立てた。両人の計画は、ともに地質調査や実地調査を行ったとはいえず、港湾計画の素描にとどまった。

横浜築港計画が論じられると、ほぼ同時に東京府(当時)が東京築港計画を立案し横浜と対立する観を呈した。東京港修築については明治14年(1881)1~5月まで築港計画が論じられたのが最初で、佃島以南芝高輪沖砲台に至る間に築造する海港案と隅田川下流に築造する河港案の両説があった。

その選択を内務省お雇土木工師オランダ人ムルデルに諮問した。ムルデルは調査の上、同年11月海港案を採用するよう答申した。海港が河港より優れているとはいえ、ムルデルの計画はあまりに壮大であるため、容易に議決することが出来なかった。だが明治18年(1885)2月、東京府知事・芳川顕正はムルデルの海港案採択を決意し、品川沖に築港する計画を内務卿・山県有朋に提出した。山県内務卿は横浜が東京築港によって衰退してもやむを得ないとして決断を下した。ところが内務卿が工費総額1893万円を太政大臣に允許(いんきょ)を求めたところ、容易に得られず東京築港案は立ち消えとなった。横浜の激しい政治的反対により東京築港は断念された。

イギリス人技師パーマーの築港案

明治19年(1886)5月、内務省はお雇工師オランダ人デ・レーケに命じて横浜港におけるドライドック(乾船渠)設置の適地を選定させた。河川工学に秀でたデ・レーケは神奈川方面をもって適地となし、2条の突堤にて海面を取り囲むようにすれば、乾船渠のみならず小型船舶の停泊に便利であり、その際港内の水深を維持するため、帷子川および大岡川を港外に導出する必要があると指摘し、さらに大港湾を築造する場合、港湾全体を防波堤で包むべきであると付言した。

同年9月、神奈川県は横浜築港の調査および設計を、県付顧問土木師イギリス人陸軍工兵大佐パーマーに命じた。パーマーは水道技師として著名であったが、イギリス測量技術を駆使し、詳細な工学的知識を土台にして築港計画案をまとめ、工費を199万9248円と見積もった。工事が完成すれば、船舶は港内で安穏を享受し、停泊時間を空費しなくてもすむなどの利便が得られる。欧米の代表港の例にならい、港湾を利用する諸船舶の貨物容積に応じ、港税を徴収すれば築港工事に費消した資金の利子や維持費を支弁するに足りる収益を得られるであろうと港湾収支の予想を述べ、築港の利益を力説した。神奈川県沖知事は、内務大臣山県有朋に港湾工事にあたる官民一体となった会社の設立を申し出た。埠頭・港湾築造会社の設立自体、パーマー案の採択・施行を前提としているので、結局パーマー案の可否が重要な課題になった。

デ・レーケの墓(アムステルダムの公共墓地)

オランダ人技師のパーマー批判

内務省はパーマー案の審査について専門家の同省お雇工師オランダ人ムルデルに委ねた。同年12月7日、ムルデルは土木局長西村に対して、パーマー案の採択は不可である旨の答申を出した。全面否定である。パーマー案の停泊地は市街地より遠すぎて不便であり、狭隘である。築堤の構造についても、海底の柔軟な部分において水中にイギリス方式のコンクリート・ブロックを打ち込み、長大堤を築くのは無理であると指摘した。ムルデルは停泊地の位置を市街地の前面に求め、停泊面積を2倍に広げ、築堤についても海底の柔らかい部分に良質の砂礫を敷き詰め、オランダ特有の築造法により粗朶(そだ)沈床を投じて堤の重量を海底に分散する方法を主張した。

結論として、パーマーの計画案はいかなる事情を勘案しても採用を勧めることは出来ないという手厳しいものだった。東京築港工事が決定しない間は、横浜築港は行うべきではなく、もし横浜が東京の海港に決まればその際は、ムルデル案に従って工事を施工すればよいと答申した。

内務省は改めてデ・レーケに工費160万円を限度とし、横浜築港の詳細な設計をするよう命じた。山県内相は全面的にオランダ人技師側の肩を持ち、デ・レーケ案を閣議採決するよう求めた。

外務省まで登場、その築港政策

内務省の動向に対して、横浜築港に強い関心を抱いていた外相・大隈重信は、独自に築港計画の準備を進めていた。築港完成後の船舶課税、埠頭税などをどのように賦課するのが適当か、欧米の諸港の例を参考にしながら検討を進めていた。同省は築港完成後入港する内外船を管理監督する権限を得られるか否かを検討した。埠頭を横浜港に建設した際、その使用法、管理権をめぐって先進国の権威をかさにきた外国商人から介入されたり、あるいはトラブルを避けるための細心の注意をはらって、築港の政治的・経済的得失を検討した。

築港の得失がしきりに議論されるようになったのは、財政難に陥っていた日本政府に、アメリカより幕末の下関事件の賠償金が明治16年(1883)4月還付されたため、資金手当ての目途がついたからであった。文久4年(1864)英仏米蘭連合艦隊が、長州藩の下関を砲撃し陸戦隊上陸して砲台を占領した、いわゆる下関事件が起こったが、幕府は4か国に総額300万ドルの賠償金を支払って決着をつけた。アメリカ政府は上院、下院の決議を以って全額78万5000ドル7セントを日本へ還付してきたので、日本政府は公債を買入れ利殖をはかりながら使途を考慮中であった。明治21年(1888)には返還金が124万円余りに達していた。外務省は返還金を開港場に埠頭を築造する資金に充当することに固まりつつあった。

下関事件の当事国のうち、アメリカ一国のみが使途にヒモを付けずに賠償金を返還した「義挙」に報いるためには、アメリカと日本との貿易ルートの一極たる横浜築港と神戸港改良工事に投下することこそ、その好誼にふさわしいと考えたのである。外務省当局はイギリス人技師とオランダ人技師が激しく対立していた埠頭工事計画案の良否に苦慮したが、オランダ人技師ムルデルの計画案(東京港改築)には消極的な評価を下すことになる。これは内務省の積極的評価とは対照的なものである。後に、大隈外相がイギリス人技師パーマー案の最大の擁護者となるに至る伏線をなしている。

明治21年4月23日、大隈外相は伊藤博文首相に「横浜港改築ノ件請議」を提出した。横浜築港が通商上急務であることを論じ、返還金が利殖金とともに135万円に増えたので、これを工費に充当すれば適切であるとしている。不足分は国庫より支出すればよく、横浜の築港完成後の収入予定金は、過去3年間の出入船舶、貨物量に対し、低率のトン税を課しても投下資本に対し1年あたり5分以上の利息に相当する金額および毎年の修繕費の雑費を収めることが可能であり、経済的にも採算がとれることを外務省は調査の上確かめているので、速やかに起工決定をされるよう求めた。

パーマーのオランダ人技師に対する反批判

横浜築港が確固たる財源を得て、政府自らの手で着工する大筋の方針は決定した。だが残る難問はイギリス人技師パーマー案か、オランダ人技師デ・レーケ案か、いずれの計画を選択するかにあった。内務省は省内の技師の審査報告に基づき、デ・レーケ案採用に一致し、山県内相が首相に採択請議を行った。大隈外相は内務省の策動に釈然とせず、デ・レーケ案を大臣秘書官加藤高明(後年首相)を通じてパーマーに閲覧させた。パーマーは自分の計画案がオランダ人技師によって否定され、日本政府がデ・レーケ案採択に傾いている形勢に激しい怒りを発し、オランダ人技師の見解に反批判を加え、大隈外相の正義心に訴えた。パーマーは測量方法、防波堤の構造、費用について自分の案を詳細に弁護し、オランダ人技師の得意とする粗朶堤の耐久力に疑問を呈するとともに、パーマー案のコンクリート製防波堤の堅固不朽なることを強調した。

パーマーは、加藤高明秘書官に「内密書」を渡し、オランダ人技師の卑劣な政治的裏工作やそれに左右されている日本政府の弱腰を痛撃した。個人的書簡の形をとっているので率直に自己の心情を吐露した。冒頭から内務省の不公平な取り扱い方を攻撃し、オランダ人技師の経歴や学歴が取るに足らないことを指摘した舌鋒は鋭い。内務省土木局の日本人技師はオランダ人技師に養育されたので、彼らの説に賛成するのは当然であり、その辺の事情を洞察すればオランダ説が優勢になる真相は明らかである、と指摘する。厳しい批判の応酬である。横浜築港の主導権を握ろうとするオランダ人技師から、パーマーは生命の危険を感じるほど脅迫感を覚えたとしており、国益を背景にした両者の確執は極点にまで達した。

明治期の横浜港(横浜開港資料館蔵)

大隈外相のパーマー案擁護の勝利

大隈外相はパーマーの訴えを聞き、内務省側から攻撃され孤立しているパーマーに深く同情し、最大の擁護者になると決意した。オランダ人技師案に容赦なく反駁を加えるパーマーの執念が、大隈を動かした。大隈は人物論あるいは工事の経験・実績の観点からパーマーをオランダ人技師より優れていると断じ、さらにはパーマーがロンドン・タイムズ記者を兼ね、しばしば同紙上に日本の文明開化の状況を好意的に紹介した労を大いに多とした。この際パーマー案を採択し、イギリスの歓心を買うことが条約改正交渉を目前に控えている時期を考慮すると「外交戦略上」からも得策であると弁じた。巧妙な論法である。

こうしてオランダ人技師を推す内務省と正面から閣議でぶつかり、予断を許さぬ状況となった。2カ月間の論議の末、黒田首相は山県内相を押さえて、大隈外相案の採択を裁断した。首相が山県と同じ長州藩出身の後輩・伊藤博文から薩摩藩出身の黒田清隆に代わっていたことが山県の立場を弱めたかもしれない。薩長出身者ではない大隈外相の筋道だった弁護が人脈を越えて勝利をもたらした。

横浜築港は大隈の意向通り、内務省土木局が管理せず、神奈川県知事が臨時横浜港湾局長として管理責任者となり、パーマーの設計監督のもとに同21年7月より築港工事が始まり、横浜港の基礎が築かれたのである。大隈外相の政治的深慮遠謀が内務省案を見事に覆したのであり、外務省の意向が築港事業に大きく反映することになる。横浜知事は、築港用工事機械やその他の関連道具類の購入についても、外務省の海外情報網に頼り、外務大臣を通じて在米各総領事をわずらわし、機具メーカーの所在地や性能、値段などについて調査させているのはその一斑を表すものである。

防波堤の崩壊

横浜築港工事は明治22年(1889)9月、4カ年の継続事業としてパーマーの設計に基づき着工された。北防波堤と東防波堤に分かたれ、両堤をもって港湾区域を画した。前者は翌23年(1990)4月、後者は同年6月着工され、両堤ともその両側での捨石作業から始まった。当初、パーマーが作業員を監督し作業を指揮したが、工事が進行するにつれて迅速な工事が必要になると粗製乱造に流れ、コンクリートの突き固め工程はかなり省略された。明治25年(1892)11月に至り、北防波堤に積畳したコンクリート塊が亀裂を生じ崩壊するものがあり、工事関係者をふるい上がらせた。翌年1月以降、500余りの亀裂塊を発見したが、その原因を明らかにすることが出来なかった。

横浜臨時港湾局長(神奈川県知事・内海忠勝)は、その原因および予防方法を調査して欲しいと内務大臣に要請した。政府は3月25日調査委員会を設置し、原因および予防策を検討させた。調査が長引いたため、同年7月7日伊藤首相は防波堤工事の一旦中止を指令した。調査委員会は同年11月ようやく各種調査を完了し、原因としてセメントの砂に対する分量が少なかったことや、小割栗石の形状が大きすぎて原料が均一ではなかったため、塊の内部に空隙が生じたこと、突き固めが十分でなく内部の構造が空疎になったことなどを指摘し、合わせて技術的改善策を答申した。塊の突き固めが浅く、多大の空隙を生じ、海水がその内部に浸透し亀裂を生じ、ついには崩壊したのであった。手抜き工事の大きな付けである。

工事の責任者パーマーは明治26年(1893)2月10日病没し、内務技師・石黒五十二が後を担当し、以後築港完成までその任にあった。試行錯誤の後、予定よりも3年遅れて明治29年(1896)5月末に2つの巨大防波堤が完成した。横浜築港は日本における最初の大規模な海洋土木事業であり、今日の横浜港の基礎を造った。のみならず、後年起工された幾多の築港技術に多くの教訓(反省)を与え、日本の港湾修築史上画期的な段階を画したのであった。横浜港はアメリカよりの返還金を原資に、オランダ人技師との確執に勝ったイギリス人技師パーマーの設計に基づき、大隈外相の政治的配慮により実現した。苦難を経て「国際港」の名を冠するに至った。横浜港が次に崩壊にさらされるのは大正12年(1923)関東大震災で、壊滅的被害を受けるのである。

参考文献:「日本築港史」(廣井勇)、「横浜築港一件」(外務省外交史料館蔵)、横浜市立大学教授寺谷武明氏論文「横浜築港の黎明」。

(つづく)

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