動物園にあった幻の映画館 「かもしか座」期間限定で復活

By 佐々木央

「ねお・かもしか座」開催のお知らせ

 「かつて上野動物園に“かもしか座”という映画館があったことを知っていますか?」。お知らせのチラシはそう書き出す。上野動物園はこの夏の夜間開園で、その映画館を「ねお・かもしか座」として復活させ、野外幻灯会を開く。

 「かもしか座」とはいったいどんな映画館だったのか。そもそも動物園は「生きた動物を集めて飼い、その姿を見せる施設」と定義されるはずだが、なぜ映画館があったのか。そこには戦争の傷跡と子どもたちの未来という二つのベクトルが交差していた。

 上野動物園は1943年のいわゆる「猛獣処分」で飼育動物を殺した。有名なのは3頭のアジアゾウを餓死させたことだが、他にライオンやトラ、クマ、ヒョウ、アメリカバイソン、ニシキヘビやガラガラヘビなどが対象となった。

 敗戦は2年後。動物園も復興を目指したが、動物は減り、戦後の混乱期で新たに猛獣類を入れることも難しかった。当時の園長は古賀忠道(ただみち)。後に「日本の動物園の父」とも呼ばれるようになる古賀は「子どもたちのためにせめて映画や幻灯で動物を見てもらおう」と考えた。

 映画館には園内の休憩所を使うことになった。建物は空襲による傷みもあったが、焼け跡から集めたトタンなどで改造した。500人は収容できる大きさで、職員が映写技師の資格を取った。

 オープンは1946年7月5日、入園者は無料で鑑賞することができた。当時の新聞によれば、最初のプログラムは「ニュース、理研科学映画『水鳥の生活』、天然色幻灯『動物園』」。動物の生態映画が中心だったが、低学年の子どもたちが喜びそうな漫画映画やキートンの喜劇映画も上映した。日曜日は大入り満員だったという。

 消防法による設備の規制が厳しくなり、49年12月末に閉館した。わずか3年半の開館だったが「ゾウも猛獣もいない上野動物園で果たした役割は極めて大きい」(上野動物園百年史)と評価された。物資が乏しく、慰めも楽しみもほとんどない暮らしの中で、子どもたちの「心の復興」への寄与は大きかったのだろう。

 古賀が考えた「子どもたちへの贈り物」の第2弾は、園内に子ども動物園をつくることだった。開園は1948年4月10日。古賀は雑誌に次のような文章を寄せている。

 「子供たちにおとなしい動物をあずけると、二つのまったく相反した行動があらわれる。それは、動物たちを、ほんとうにかわいがることと、これをいじめて喜ぶことである。(中略)この子供たちの行動のうち、動物をいじめる傾向をできるだけおさえて、かわいがるという心をのばしてやるべきだと考える。しかし、そういう方向に子どもたちをみちびいてゆくには、けっして、言葉で話して聞かせたり、本を読ましたりした程度では、とうていでき得ないことだと私は考えている。子供たちに動物がほんとうにかわいいものだと実感させることが必要だと思うのである。そして、このことは、かわいい動物を子供たちにあずけ、そしてそれを正しくみちびくことによってのみできることと考える」

 子どもたちへの贈り物という意味にとどまらず、弱い者への思いやりを育て、平和を求める心をはぐくむことさえも含意していたようだ。深読みするなら、自らも無関係でなかった猛獣処分への反省もあったかもしれない。

 上野の子ども動物園は今年70周年。生きものとのふれあいを中心にした子ども動物園は、いまでは国内の多くの動物園で開設されている。

 歩み来ていま、日本社会はどこへ向かおうとしているのか。平和への願いは継承されているのか。「ねお・かもしか座」の上映を見ながら考えたいと思う。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

 ■「ねお・かもしか座」の上映は8月10日から15日まで、午後6時半から1時間程度、上野動物園内の子ども動物園すてっぷ館前で。上映作品は「移動動物園」「動物まつり」「トラもめざめる夜の動物園」など。

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