惨状の記憶 心に深い傷 語るのがつらく、手記に

 核兵器の恐ろしさを訴えるため被爆体験を語り続ける人がいる一方、惨状の記憶が心に重くのしかかり今も語れない被爆者がいる。「思い出すだけでつらい」と涙を浮かべる長崎市の松本長子(ますこ)さん(86)も長い間語れなかった一人。数年前、語れない代わりに手記をつづった。手記の内容を補足する形で、取材に初めて口を開いてくれた。
 「お母さんから一度も原爆のことを聞いたことがない」
 息子の言葉が手記のきっかけだった。せめて息子には体験談を伝えておこうと書き始めたが、書きながら涙が流れ、声に出して読もうとすると気分が悪くなったという。
 手記と松本さんの話によると、原爆が投下された1945年8月9日午前11時2分、爆心地から約2・2キロの長崎市稲佐町(当時)で被爆した。13歳の松本さんは父が運営していた幼稚園の運動場で、1人で鉄棒をして遊んでいた。原爆による熱線や爆風は園舎で遮られ無事だったが、気を失った。
 数時間後、意識が戻り座り込んだ。園の一角には防空壕(ごう)があった。難を逃れて園にやって来た人たちの姿は「地獄絵図だった」。
 耳がちぎれ、顔は血で赤く染まった男性、爆風で頭を吹き飛ばされた赤ん坊を放心状態で抱えた女性、「助けてください」と何度も叫び地をはう女性-。
 爆心地付近では被災した工場の骨組みに、だるまのように赤銅色に膨らんだ死体が逆さまにぶら下がっていた。浦上川には山積みの裸の死体。気が動転していたのか、当時は見ても何の感情も湧いてこなかったという。
 戦後間もないころ、両親から「結婚できないから原爆のことは話すな」と忠告されたことがあったが、それ以上に思い出すこと自体がつらいので、家族にも語ることはなかったという。「これからも語らないと思う」と松本さん。原爆投下から73年たっても心の傷は深いままだ。
 長崎市が2004年にまとめた被爆者対象の健康意識に関する大規模調査によると、原爆投下後の体験で「負傷者を見た」は56%、「亡くなった人を見た」は44・1%。「被爆者であることを言えなかった時がある」は15・9%だった。
 調査を再検証した長崎大の研究者らによる「原子野のトラウマ」(長崎新聞社刊)によると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の可能性が高いと判定された被爆者は31・9%だった。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件の被災者でPTSDの可能性がある人はそれぞれ39・5%、29・5%だったと報告されている。

あの日の光景を思い出し涙をこぼす松本さん=長崎新聞社

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