明智光秀、最古の史料が熊本市で発見 1566年以前、近江で足利将軍家と関わりも… 

「針薬方」の奥書。右側1行目の中ほどに「明智十兵衛」と書かれている

 「本能寺の変」で知られる戦国武将の明智光秀が1566(永禄9)年より前に、交通・経済の要衝だった近江国の湖西(滋賀県の琵琶湖西岸一帯)で活動していたことを示す書冊が熊本市の旧家で見つかった。織田信長に仕える前のもので、光秀に関する史料としては最古。足利将軍家との関わりがうかがえるという。

 県立美術館本館(熊本市中央区)で開催中の展覧会「細川ガラシャ」(9月24日まで)で展示している。

 調査・分析した熊本大永青文庫研究センターの稲葉継陽教授によると、史料は足利将軍家に仕え、肥後細川家家老となる米田[こめだ]家に伝わる医薬書「針薬方[はりくすりかた]」。米田貞能[さだよし](求政)が1566年10月、湖西の近江坂本(滋賀県大津市)で書写した。

 その奥書[おくがき](来歴)に針薬方の説明として、元々は「明智十兵衛(光秀)が近江国高嶋郡の田中城(滋賀県高島市)にろう城した時の医薬の秘伝をまとめたもの」と記されていた。足利将軍家に仕えた沼田勘解由[かげゆ]が書き写し、米田がさらに書写したという。

 稲葉教授によると、光秀が登場する最古の史料はこれまで、越前(福井県)に移った足利義昭の1567年の家臣団名簿。光秀は美濃国(岐阜県)出身とされるが、義昭を奉じて上洛した信長に1569年に仕える前の動きはあまり分かっていなかったという。

 稲葉教授は「信長の上洛前から光秀は湖西地域に拠点を持ち、足利将軍に近い武士と関係をつくっていたと考えられる。なぜ信長が光秀を重用したかも理解できる」と話している。(中原功一朗)

(2018年8月10日付 熊本日日新聞朝刊掲載)

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