リオは「負け」東京は「勝つ」 柔道 永瀬貴規 2020に懸ける長崎県勢 File.1

「今やれることを必死にやる」と語る永瀬=茨城県つくば市、筑波大柔道場

 「金」が宿命のニッポン柔道。永瀬貴規にとって、2016年リオデジャネイロ五輪の銅メダルは「負け」だった。東京五輪までの道のりは、悔しさを晴らすための4年間。その序盤に負った大けがという試練も、今はプラスに捉えている。「すべては自分を成長させる糧だった」。東京で「勝った」時、胸を張ってそう言えるように。

■日の丸の責任
 リオから1年後、昨夏のブダペスト世界選手権。男子81キロ級の前回王者として連覇を狙ったが、4回戦の開始約40秒、右膝に感じたことのない痛みが走った。本来ならば、棄権という選択肢もあったのかもしれない。「でも、歩けはした。だったらやろう」。どんな状態でも言い訳をしない心の強さ、日の丸の責任感が、それを許さなかった。
 延長まで粘ったが、最後は三つ目の指導で惜敗。帰国後に内側側副靱帯(じんたい)損傷、前十字靱帯断裂と診断された。信じたくなかったが、セカンドオピニオンも結果は同じ。現実を受け止めざるを得なかった。
 手術に踏み切るのにも葛藤があった。受けてしまえば、畳から離れる時間はいやでも長くなる。でも、20年をベストの状態で迎えるために-。昨年10月、再建手術を受けた。それから約5カ月間。焦る気持ちを抑え、不安と闘いながら地道なリハビリや筋力トレーニングに励んだ。
 畳の上で打ち込みを再開できたのは3月。小学1年で柔道を始めて以来、こんなに長い間、思い切り体を動かせなかったのは初めてだった。だが、自らの柔道や体の使い方を見直し、精神面を鍛え直す時間にはできたと思う。今後は段階を踏みながら試合感覚を取り戻し、11月の講道館杯全日本体重別選手権での完全復活を目指していく。

■悔いを残すな
 復帰プログラム自体は順調だが、不安がないと言えばうそになる。でも、今を乗り越えれば、より速く、より強く進化した自分に会えると信じている。そのモチベーションはもちろん、東京五輪。「自国開催の大舞台で、表彰台のてっぺんに立つ」。それだけは絶対に譲れない。
 だから「81キロ級で五輪代表になる」という目標は最低限。「リオの悔しさを知る自分がならないといけない」という責任感の方が強い。その前に再び世界に出たら、また、ライバルたちに研究されるだろう。でも、それも織り込み済み。武器である組手や判断力をさらに磨き「勝ちにこだわる柔道」を突き詰めていく。
 2年後の夏、東京五輪の畳に立つ自分を想像してみる。自身に声を掛けるとしたら、こう言うだろう。「悔いの残る試合だけはするな」。リオでは力を出し切れずに終わったという感覚の方が大きかった。あの時と同じ思いは、してほしくない。

 【略歴】ながせ・たかのり 長大付小1年時に養心会で柔道を始めた。長大付中から長崎日大高に進み、個人81キロ級で1年時に全国高校選手権優勝。3年夏の全国高校総体も制した。筑波大2年でユニバーシアード優勝。世界選手権は初出場した2014年が5位、15年に県勢初の金メダルを獲得。16年に旭化成へ入社して、リオデジャネイロ五輪で銅メダルを手にした。息抜きはテレビのお笑い番組を見ること。182センチ。24歳。長崎市出身。

© 株式会社長崎新聞社