出るだけでなく「戦う」 陸上三段跳び 山本凌雅 2020に懸ける長崎県勢 File.2

 日本の高校生で初めての16メートルジャンパーになってから4年半。山本凌雅は今、日本の男子三段跳びをリードする存在になった。国内で勝つ、国際大会に出るだけなら、既に十分な力はついている。「でも、世界で戦えないと面白くない」。目標は世界の舞台でメダル。それを東京五輪でかなえられたら、最高だ。

■一番の心残り
 この春までの大学4年間を振り返ると、充実感と心残りが交錯する。1年で世界ジュニア選手権とアジア大会、4年で世界選手権、ユニバーシアードを経験。海外遠征も多くなり、活躍の場は広がった。
 筋力をつけ、体重は高校時代から約7キロ増加。助走スピードが上がり、体の使い方もレベルアップした。フォーム改造に苦戦して「初めて壁にぶつかった」2年のシーズンを除き、三段跳びを本格的に始めた高校2年から毎年、自己ベストを更新し続けている。
 最も成長を実感できたのは昨年4月の織田記念国際。世界選手権の参加標準記録(16メートル80)をクリア、自己ベストを19センチも上回る16メートル87を跳んだ。優勝記録は4.7メートルの追い風参考ながら16メートル91。ファウルにはなったが、17メートル15の日本記録に迫るジャンプもあった。
 そんな順風満帆に見える競技人生だが、自らの設定には「毎年、届かなかった」。一番の心残りは「学生のうちに日本記録を出す」と言って、達成できなかったこと。4年間、立ち止まりはしなかったが、世界で戦える選手という理想像には、まだ及ばなかった。

■変わらぬ思い
 今春、日本航空(JAL)に入社。陸上が仕事になった。結果を出していくことはもちろんだが、同じぐらい大切にしている思いがある。それは「自然と応援される選手」。諫早農高時代の恩師、木戸祐一郎教諭(現西彼農高)の教えだ。
 あいさつ一つで印象は違う。練習の指導や講演など、依頼があればなるべく引き受ける。「応援よろしくお願いします」と言わなくても、普段の行動から「応援したい」と思われる人でありたい。社会人として企業の看板を背負うからには、その精神がますます大事になると理解している。
 練習場所は関東が拠点。自ら考えてトレーニングを積み、要所で外部コーチにアドバイスをもらっている。これまでと環境が大きく変わった上に、腰から脚に故障を抱えてのスタートとなったが、焦らずに「地盤固め」の時期と捉えて体を動かしている。
 そして徐々にエンジンがかかったら、大学から持ち越した宿題「日本記録」に挑む。世界でメダルを取るには、17メートル50レベルが普通。まずは目の前の17メートル15を超えて、一つ一つ階段を上がっていくつもりだ。
 このところ、日本陸上界は100メートル、マラソンなどで新記録が相次いでいる。「このいい雰囲気に続かないといけない」。三段跳びのそれは、五輪実施種目で最も古い。1986年から32年間、止まったままの時間を動かしてみせる。

【略歴】やまもと・りょうま 湯江小6年時に明峰ジュニアで陸上を始め、高来中時代はハードル種目が専門だった。跳躍への転向は諫早農高1年の後半。当時の将来の夢は美容師だったが、3年時に高校の主要全国大会4冠を達成し、日本高校記録16メートル10も樹立。国内トップ選手の仲間入りをした。順大4年で世界選手権代表、ユニバーシアード銅メダル。今春、JALに初のアスリート社員として入社した。三段跳びに加え、走り幅跳びも7メートル84の県記録を持つ。179センチ、66キロ。22歳。諫早市出身。

社会人初戦に地元を選んだ山本。「長崎から元気をもらっている」=諫早市、トランスコスモススタジアム長崎

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