翁長雄志沖縄県知事を歴代担当記者たちが語り合った 「言霊」持った政治家 県民の「うねり」引き出す

 翁長雄志知事が死去したことを受け、琉球新報社は12日、記者座談会を開いた。4期14年の那覇市長時代と、知事在任中の約3年8カ月、翁長氏の動向をつぶさに追ってきた琉球新報の歴代那覇市政担当記者、県政担当記者らが翁長氏の政治家としての横側や逸話などを語り合った。
■那覇市長時代■
 ―どんな人物だったか。
瀬底 「那覇市政担当として、朝な夕なに直撃することも多かった。毎回、求めている答えが返ってくることはなかったが、取材が尽くされた上で質問をしているのかを鋭く観察しているようで、いつも緊張した。一度、人事関係で最終的な取材をした時『昨日で聞けばよかったのに』と笑って返されたことがある」
新垣 「知事就任後、しばらくして開かれた記者懇談会でのことだ。昼間はマスコミにそっけなく対応することが多いことに触れ『本当は話をしたいんだけど、ごめんなさいね』とわびていた。酒も入った席で、上機嫌を指摘すると『あっさ、本当の僕はどんなに明るいから。あなたなんかともずっとおしゃべりできるよ』と。記者サービスもあったのだろうが、根っからの明るさも感じさせた」
 ―那覇市政での功績は。
問山 「那覇市長に就任した直後の市政を担当した。当時はよく飲みに連れて行ってくれた。行きつけのスナックで、未来の那覇市のことやまちづくりについて熱く語っていた。それと、那覇市長になることが長年の夢だったことも。『行政は最大のサービス産業』と、市民の視点でサービスが提供できるよう市職員の意識改革の必要性を強調していた」
平安 「市民が暮らしやすい都市づくりに関して高い意識を持っていた。屋上緑化も積極的に取り組み、翁長氏も自宅で実践した。那覇市の職員や記者を自宅に招いて、屋上庭園のお披露目をやったことがある。翁長氏は育てた植物の種類や屋上緑化実現までの過程を楽しそうに話していた」
瀬底 「那覇市長時代に繰り返し『イデオロギーを乗り越えて、市民本位の市政を』と語った。東西冷戦終結の立役者であるゴルバチョフ元ソ連大統領を那覇市に招いたこともその表れだろう。『米軍基地が横たわっているため沖縄県では、イデオロギー闘争がすごすぎて、市民生活がおざなりにされてきた』と何度も聞かされた。市役所の意識改革、環境問題では一定の成果を上げたように思う」
■沖縄の歴史背に 鋭いフレーズ■
 ―いくつもの印象的な言葉を残した。
島 「強権を振るう政府に言葉で対抗し、県民を鼓舞した。言霊を込めた政治家だった」
当銘 「那覇市長時代、奥さんの樹子さんが『外ではあんなにたくさん演説するのに、家では全然喋らないんです』と話すと、翁長氏は笑いながら『僕は家では全然話さないんだ。政治や市政運営のことを物考えしているから』と認めた。家でも政治家であり続けた結果『魂の飢餓感』『粛々は上から目線』『イデオロギーよりアイデンティティー』という、県民や国民がハッとするようなフレーズを紡いだのだろう」
新垣 「言葉の強さを知り、沖縄が歩んだ歴史を大切にしている人なのだと思ったのは、ようやく実現した菅義偉官房長官との初会談での『キャラウェイに重なる』との発言だった。日本復帰40年がたっても変わらない沖縄の状況を端的に表現し、それがまた反響を呼んだ。幅広く県民の共感を呼んだのでは」
 ―「日本の中の沖縄」を意識しつつも、沖縄の立場で語っていた。
滝本 「政府と対峙(たいじ)する状況が続いていた時、スポーツで日本勢が善戦した試合があり『我々も日本選手が活躍したら、喜び、涙も流す。なのに…』と一方的な日本側への思いとなっていることに寂しさ語っていた。ある意味、日本人になりたい、なろうとして、沖縄の方から本土の方に近づいていっているのに、本土側の方から拒まれて、寄せ付けようとされない。そんな状況に憤りと、寂しさ、『なぜ聞き入れてくれないんだ』というもどかしさを感じていたのではないか」
■保守政治問い続け 政権との対峙(たいじ)■
 ―「オール沖縄」を構築した源泉をどう考えるか。
宮城 「那覇市長に就任したとき、『大田県政と対抗していたときは僕の青春時代だった』と語った。『右』の政治家だったが『左』にもウイングを広げないと沖縄の問題は解決できないとも。これがオール沖縄の原点だ」
松元 「19年前の忘れ難い取材がある。1999年9月、米軍普天間飛行場の県内移設を容認する稲嶺恵一知事を支えるため、県議会で自民党が『県内移設容認』決議案を提出した。賛成多数で可決された後、提案者代表の翁長知事(当時の自民党県連幹事長)は『県内移設の代償として、沖縄振興予算を獲得して経済を浮揚させる。それが沖縄の保守の信念だ』と胸を張ったが、安堵の表情がすぐに曇ったことが記憶に残る。選挙で選ばれた県民代表が基地を巡って賛否に分かれていがみ合うことに、翁長さんは複雑な思いを抱いていたように思う」
宮城 「99年の徹夜議会の時、県議会の担当だった。実はこの時、翁長氏は私に『過重な基地があることには反対と言いたい。気持ちは分かるが、政権党の立場があるので、野党のように反対と言えない』と明かしていた。この頃から普天間移設問題に疑問を抱いていたのではないか」
当銘 「2014年の知事選時、『オール沖縄』という言葉がいつ頃から使われるようになったのか調べたことがある。検索した限りでは『オール沖縄』という言葉が政治の場で初めて出てくるのが1979年。驚いたことに、翁長氏の兄助裕さんが出馬した衆院選の打ち上げ式の記事で助裕さんが『これからはオール沖縄でやっていく必要がある』と訴えていた。助裕さんの言葉を聞いていた翁長氏の心に残った言葉だったんだと思う」
金良 「17年の新年会で、父・助静さんの短歌『侘(わ)びしげに見ゆれど孤(ひと)つの高さ示し岩を圧(おさ)へてひともと小松』を詠んだ。『大きな岩の上にある小さな松は侘びしく見えるが、松は根を張り岩を押さえている』と意味を解説し、自分自身を、根を張る木に例えることが多かった。沖縄を支え発展させるため、根を張り続けようとしていたと改めて思う」
知念 「『建白書』実現を訴える13年1月の東京要請行動を随行取材した。復帰後最大規模の東京行動ということで注目を集めたが、銀座で行われたデモ行進は足を止める人もまばらで、右翼団体の妨害に遭って罵声を浴びせられた。その際、『参加者の半分が初めて本土の無理解と無意識にぶつかってショックを受けたが、がくっときたかというとそうではない。沖縄から声を上げないとどうにもならないと(いう思いが強まっている)。団結の心は強くなった』と語った。大きなうねりを作り出していったのは自身の力が大きかったと思う」
■命賭け未来問うた 最後の会見■
 ―亡くなる直前の様子はどうだったのか。
島 「5月25日に会った時、自らの病状を説明して『幸い、転移はないようですから』と話していた。回復を信じていたと思う。残念でならない」
与那嶺 「辺野古新基地建設を巡る埋め立て承認の撤回に向けた手続きに入ることを表明した7月27日の会見が、翁長知事を目にした最後になった。非常に雄弁で、内容にも入院前のような力強さがあった。しかし会見の裏側では、エレベーターに乗る直前に歩けなくなり、十数秒間壁にもたれて休んでいる翁長知事の姿もあった。本当に命懸けだった。保守政治家の出自を誇りとしながら、本当の保守政治とは何かを今の自民党の政治家に厳しく問い続けていた気がする」
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〈記者座談会参加者〉北部支社・宮城修、読者事業局・松元剛、政治部・与那嶺松一郎、東京報道部・滝本匠、知念征尚、整理グループ・当銘寿夫、経済部・島洋子、平安太一、中部報道部・新垣和也、地方連絡部・瀬底正志郎、社会部・問山栄恵、金良孝矢

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