追悼、追想、贈る言葉

 歯に衣(きぬ)着せぬ物言いが記憶に残るが、家族思いの優しい父親だったという。5年前に亡くなった映画監督の大島渚さんは、戦争体験を40余年前、詩の形にして息子に残している▲「パパの戦争」と題し、13歳の頃の、戦争が終わった日のことを書いた。その一節。〈夜/母、疎開の妹を迎えに旅立つ/眠れない/電燈明(あ)かるく/非常食の炒(い)り米/ボリボリかじる〉…▲夜の明かりも、眠れないままかじった炒り米の味も、終生忘れることはなかったろう。あの戦争を知る方たち誰もが追想に浸ったはずの「終戦の日」が過ぎた▲平成最後の全国戦没者追悼式で、天皇陛下は戦没者へ追悼の意と、平和への願いを述べられた。4年連続で「深い反省」の文言も盛り込んで▲かつての述懐に「私の幼い日の記憶は3歳の時に始まります」とある。3歳の頃の1937年7月、日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起きた。「したがって私は戦争のない時を知らないで育ちました」。11歳だった終戦時、疎開先から戻ると東京は焼け野原だった、とも語られている。慰霊と平和を望む言葉の底に戦争の記憶がある▲大島さんの詩は、41歳の今も戦争を憎む-と続き、〈君よ/今を大切にせよ〉と結ばれる。追悼と追想の言葉が胸に広がり、今と未来を生きる者へと贈る言葉を胸に刻む。(徹)

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