【特集】ビキニ核実験64年後の「救済」判決 元船員訴えの重み

ビキニ環礁で1954年3月に米国が行った水爆実験(左)=米エネルギー省提供 高知県、太平洋・ビキニ環礁の地図(右)

 「そこまで言うなら、勝訴でいいのにね」。市民団体「太平洋核被災支援センター」(高知県宿毛市)事務局長山下正寿さん(73)の表情はいくぶん明るかった。

 1954年の米国による太平洋・ビキニ環礁での水爆実験を巡り、当時周辺海域にいた第五福竜丸(静岡県焼津市)以外の漁船に関する資料を60年にわたり国が隠したとして、高知県の元マグロ船員らが国に慰謝料を求めた訴訟。判決は原告の請求を退けたが、元船員の被ばくを認定し、行政や立法による救済の必要性にも言及した。救済を待ち望む元船員や山下さんら支援者にとって、小さくとも、確かな一歩となったに違いない。(共同通信=高知支局・小嶋捷平)

 私たちなりの判断

 「原告らの請求をいずれも棄却する」。7月20日午後1時半、高知地裁。傍聴人でいっぱいの蒸し暑い法廷内で、西村修裁判長はあっさりと敗訴を告げた。

 請求に対する裁判所の判断は、原告側の「完敗」と言うより他はない。最大の争点だった「国が資料を隠し続けたか」は継続性がないなどと退けられ、損害賠償の請求権が消滅する除斥期間の経過、いわゆる「時効」も指摘された。しかし西村裁判長は、単なる「棄却」だけで問題を片付けることはしなかった。

 「原告らの主張は法律論からいれることはできないが、この事件は大変大きな重みを持つ。私たちなりに判断したので、目を通してもらいたい」

 判決は、水爆実験により原告の元船員が被ばくしたと認定。補償が限られたにもかかわらず、救済は長年省みられなかったとして「立法府および行政府による一層の検討に期待するほかない」とした。

 判決後、高知市の元船員増本和馬さん(81)は敗訴への無念さを口にする一方、救済への言及には「当然のこと。これからも一生懸命頑張りたい」と前を向いた。

判決後、記者会見する弁護士(中央)と元船員ら原告側=2018年7月20日、高知市

 どうにもならん

 実験では第五福竜丸の乗組員23人が被ばくし、半年後に無線長の久保山愛吉さん=当時(40)=が死亡。国内で反核運動が盛り上がる契機となり、広島、長崎に続く第3の被ばく「第五福竜丸事件」として人々の記憶に刻まれた。補償問題は55年、米国が見舞金200万ドル(当時7億2千万円)を日本に支払い政治決着。第五福竜丸の船員は1人あたり約200万円を受け取った。

 実際は周辺海域に約千隻の日本の漁船がいたとされ、実験とみられる光を見たり、放射性降下物「死の灰」を浴びたりした船員もいるが、補償や追跡調査はない。東京都立第五福竜丸展示館(江東区)の市田真理学芸員(51)は「〝第五福竜丸事件〟という呼び方そのものが、事件を矮小化する根拠になる」と話す。

 山下さんら支援者は30年以上、元船員の聞き取り調査を続けてきた。被ばくとの関連が疑われるがんや白血病を患い、若くして亡くなった人の割合が高いと指摘する。

 2014年、山下さんらの度重なる求めに応じ、国は延べ556隻の検査結果を開示した。60年間「ない」とされた資料は、倉庫の段ボール箱に入っていたという。

 それでもなお、国は船員の被ばくを健康被害が生じるレベルを下回ると主張。高知県などの元船員が求めた事実上の「労災認定」に当たる船員保険を不適用とし、救済への扉を閉ざしている。

 高知県土佐清水市の元船員谷脇寿和さん(83)は取材の度、口癖のようにこぼした。「わしらの力じゃ、どうにもならんよ」

1954年、ビキニ水爆実験で被ばくした第五福竜丸=1973年、東京都江東区

 届け魂の叫び

 7月半ば、判決に先立って第五福竜丸の元乗組員に話を聞いた。存命は5人。補償金を受け取ったことで地元の人からはねたまれ、被ばくへの偏見にもさらされた。

 「〝ドカン〟と来て、みんな逃げたと思っていた。死の灰を浴びた船がまさか他にいたとは」。操機手の池田正穂さん(86)=焼津市=は左手の甲をさすりながら、目を丸くした。大きなほくろのように、ケロイドの痕が茶色く残っていた。

 冷凍士の大石又七さん(84)=東京都大田区=は、救済の可能性を尋ねる筆者に「難しい」と繰り返した。「敗戦国の日本は福竜丸以外の被災に目をつぶるしかなかった。国も申し訳ないと思っているはずだが、いまさらどうしようもない」

 補償はおろか、被ばくの事実すら見過ごされてきた60年。船員たちの途方もない苦難の歴史からすれば、司法が一言「救済」に触れただけでも、待ちわびた確かな一歩なのだと思う。

 16年5月の提訴から2年超の間に、原告の元船員1人が病死した。判決当日、法廷に足を運べたのはわずか4人。8月3日、原告側は高松高裁に控訴したが、体調面の不安などから、23人いた元船員のうち約3分の1が原告団を外れた。

 事件から64年、「時間がない」という言葉を何度耳にしたことか。だんだん細っていく船乗りたちの訴えは、それでもかすかに聞こえている。これで本当に最後かもしれない魂の叫びが、しかるべき立場の人に、少しでも届いてほしい。

ビキニ水爆実験を巡る賠償を求めた訴訟の判決が言い渡された高知地裁の法廷=2018年7月20日(代表撮影)

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