日本から中国への影響示す 興福寺伝来の「當麻曼荼羅」

 長崎市の唐寺の一つ、興福寺に伝わる江戸中期の仏画「當麻曼荼羅(たいままんだら)」と「涅槃図(ねはんず)」について、現在調査が進められている。新たな事実が明らかになるにつれて、長崎と中国の交流史を語る上でも貴重な資料であることが分かってきた。
 ことし3月末、絵画修復の専門家と長崎歴史文化博物館の研究員が立ち会いの下、興福寺が保管する涅槃図の入った木箱を数十年ぶりに開けた。そこには同図のほか、もう一つ大型の掛け軸が納められており、慎重に広げたところ當麻曼荼羅だと分かった。
 
 ■原本は国宝
 
 當麻曼荼羅の原本は奈良県の當麻寺に伝わる国宝。8世紀ごろに作られたとされ、約4メートル四方に極楽浄土の世界が綴織(つづれおり)で表されている。貴族の娘である中将姫が阿弥陀如来(あみだにょらい)や観音菩薩(ぼさつ)の力によって一夜で織り上げたという伝説があり、「奇跡の曼荼羅」として今なお信仰を集め、鎌倉時代以降、多くの写しが制作されている。
 興福寺の當麻曼荼羅も写しの一つ。約2メートル四方の紙に描かれており、原本のほぼ4分の1の大きさ。輪郭線は木板刷りで、その上に手で彩色が施された、大変手の込んだものだ。
 なぜ、禅宗の黄檗(おうばく)寺院である興福寺に浄土教ゆかりの仏画があるのか-。
 その謎を解く鍵が、同博物館の長岡枝里研究員らの調査により、画面下部の、数珠つなぎに描かれた丸の中に見つかった。「勧善往生日本黄檗山獨湛(どくたん)和尚」「長崎東明興福禅寺(略)悦峰(えっぽう)拝手書(しゅしょ)喜供」-といった文が直径5ミリほどの丸に一文字ずつ、金泥で書き込まれているという。
 
 ■獨湛と忍澂
 
 獨湛(1628~1706年)は、福建省出身で日本黄檗宗の開祖・隠元と共に長崎へ渡来し、その後京都の萬福寺で住職になった人物。悦峰(1655~1734年)は浙江省出身の黄檗僧で、興福寺の住職を務め、獨湛とは師弟関係にあった。
 獨湛は禅宗の高僧でありながら、念仏を奨励。「念仏獨湛」とも呼ばれ、日本で浄土の教えに傾倒していったとされる。浄土宗の僧・忍澂(にんちょう)と特に親しく、忍澂は獨湛が作った念仏を勧める印刷物を21万枚も刷って配ったという。
 忍澂の伝記「忍澂上人行業記」に獨湛についての記述がある。當麻曼荼羅の原本を見て感動した獨湛が、中国で當麻曼荼羅が知られていないことを悲嘆。その思いを酌んだ忍澂が4分の1の曼荼羅を作らせ、獨湛へ贈った。喜んだ獨湛は曼荼羅に自ら縁起文を書き、悦峰が跋(ばつ)(丸の中の字)を付けて興福寺に寄付した-。この記述と興福寺の當麻曼荼羅の特徴が一致するとして、長岡研究員は「忍澂から獨湛に贈られたものである可能性が極めて高い。これだけ来歴がはっきりするものは貴重」と指摘する。
 
 ■修復が課題
 
 忍澂の伝記には続きがあり、長崎にもたらされた當麻曼荼羅は興福寺に参詣した中国人の目に触れ、曼荼羅の内容や縁起が中国にまで伝わった-などと記されているという。「獨湛は長崎に来た中国人に見せる目的もあって、興福寺へ寄進したと考えられる。黄檗については中国からの影響が語られてきたが、今回は日本から中国への影響を示す珍しい例」(長岡研究員)。
 當麻曼荼羅と一緒に調査が進められている涅槃図は、縦約320センチ、横約293センチ。軸木に1681年に記された銘文が見つかり、同時期の制作とみられる。日本人絵師による制作とみられ、釈迦(しゃか)の入滅の様子が色鮮やかに描かれている。
 両資料とも、虫食いやカビの被害が深刻で、今後の保管や修復が大きな課題。当面は専門家の指導の下、現状維持を図りつつ、貴重な文化財を未来にどう伝えるのか検討していくという。興福寺の松尾法道住職は「調査を進めてもらい、皆さんに黄檗文化の素晴らしさを知ってほしい。獨湛さんの思いも伝えていきたい」と話している。

興福寺の當麻曼荼羅の合成図(長崎歴史文化博物館提供)
興福寺伝来の涅槃図を慎重に調査する様子=長崎市、興福寺(長崎歴史文化博物館提供)

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