講道館柔道の祖・嘉納治五郎・再説~その国際感覚と徹底した平和主義~ 軍部暴走の中、日中友好と五輪日本開催に尽力

嘉納治五郎像(筑波大学キャンパス)

嘉納治五郎(1860~1938)は、講道館柔道の創始者であり、教育者(学習院教頭をはじめ、第五高等中学(現熊本大学)・第一高等学校(現東京大学)・高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学)の校長を歴任した。同時に文部省高級官僚、日本初代(東洋で初の)国際オリンピック委員会(IOC)委員を務め、幻の東京オリンピックを招致。さらに大日本体育協会会長、貴族院議員、哲学者、能書家…。

前回はこちら「日本オリンピックの父・講道館創設者、嘉納治五郎~その大いなる精神と実践~」http://www.risktaisaku.com/articles/-/6005

その高邁な精神(モラル・バックボーン)に「精力善用」「自他共栄」がある。「自他共栄」を掲げた嘉納の類を見ない国際感覚を考える。

嘉納ほど隣国・中国との善隣友好関係を望み実践した明治期の知識人を知らない。「中国人日本留学史研究の現段階」(大里浩秋ら編)の<清末留日学生教育の先駆者嘉納治五郎―中国教育改革への参与を中心に―楊暁、田正平>を参考にし、一部引用する。

19世紀末、日本の文部兼外務大臣の西園寺公望の委託を受けて、嘉納治五郎は中国から最初に日本に留学する留学の公使館生を引き受け、ほどなくして独自に宏文院を創設し、中国人留学生を受け入れた。彼は、日本が中国からの留学生の教育に乗り出すにあたって先駆者となり、清朝末の日中教育交流史に重要な役割を果たした。

中国文明の恩恵を受けた日本

19世紀末から20世紀初頭、日中関係は逆転し、日本は明治維新後東アジアに台頭して、日清戦争後軍国主義の道を歩み始め、列強の中国分割の列に加わった。だが中国は「強敵を師とする」のスローガンのもと、急速に日本を通じて西洋に学ぶとの道を歩み始めた。  

嘉納は「清国保全論」から出発して、「日本と清国は唇歯輔車の如き間がらにあり、一旦事がおこると、必ずや戦乱の中に引き込まれて、我国に及ぼす被害は甚大となるので、防がないわけにはいかない。清国の保全と発達はまた、清国が自らこれをなすことであるが、もし欧米諸国と衝突すれば、清は必ずや保全することが出来ない。若(も)し自ら防ぎ自ら発達することを望むなら、これを補佐しないわけにはいかない」と主張した。

嘉納の考えでは、中国と日本の関係は重大であり、中国が国力を保てなければ、日本もそれを全うできない。このような存亡を相互に依存する近隣関係は、日本が強大になったからには、かつては日本の恩人であり、衰退している中国に対して袖手傍観するわけにはいかないのである。

「そもそも日本と清国は僅かに一水を隔てるのみで、かつてその制度文物を輸入し、以って我が昔日の文明を作ることで、今日我国は東洋の先進国となった。彼我の関係は甚だ親密であり、決して欧米諸国の比ではない。我国の清国に対するは、これを扶助することに尽力するのみである。且(か)つ清国が保全され発達することは東洋和平の大局を維持し得るものであり、ロシアの利益から見ても、また、清国のために尽力しないわけにはいかないのだ」。「いかんともしがたく花が落ちて行く」ような中華帝国に対して、昔から中国文明の恩恵を受けていた日本は「中国のために尽力しないわけにはいかない」との呼び声を発し、日中関係をアジア各国の関係に更に一歩拡大させるという嘉納の考えによって、私たちは、近くから遠くへとおよぶ広角鏡を通して、焦点は世界平和にあるということに気づくのである。彼は次のように述べた。

「今日の世界は種族の世界であり、種族の競争の世界である。白色人種が最も強く、黄色人種はこれに対抗することが出来ない。凡そ我が同種は、自ら相提携するしかなく、どうして離れ背くということができようか。その同種を兼愛する心を広げようではないか。すなわち日本、朝鮮、シャム(現タイ)は皆一体であると見なし、お互いを助け合って、以って白色人種と対決する。敵は、決して争い戦うことはないと言うが、しかし相互に連絡して気勢を示せば、世界平和の大局を保つことができるのである」。

嘉納の扁額「自他共栄」(神戸・灘中高校所蔵)

中国と友好関係・保持

嘉納は近代以来の世界の大局を、白色人種と黄色人種の間の種族優劣の競争とし、黄色人が一致団結して白色人の勢力に対抗し、アジアの平和を守ることを希望したが、これが、日本は中国と友好関係を保持しなければならないという嘉納が堅持した基本的な出発点であった。

それならば、如何(いか)に中国を補佐し、その勢いを強められるのか。教育家として嘉納は中国の教育改革に目を向け、中国の教育改革の活動に積極的に身を投じた。彼の思想や行動は決して日本社会が一致して認めるところではなく、異なる観点を持つ各界人士の懐疑や避難を引き起こしたことがあった。日本にいた中国人留学生はこれに対して感じるところがあり、何故(なぜ)新聞紙上の言論と嘉納先生の主張は一致しないのかと、尋ねたことがあるが、嘉納は次のように答える。

「弊国の新聞社の主筆、名士は僅かに3人のみで、今は皆常に原稿を書いているのではないし、それ以外の者はみな知識が浅く、世界の大勢を未だ知らない。これらの議論は、独り新聞社がそうであるだけではない。弊国の知識人はまた常に予言して、支那のために教育を興すと、将来必ずや復讐されることになると言う者がいる。支那が強くなれば日本が弱くなり、彼の地は広く民は多いのだから、我々はどうして対抗し得るか。これは自ら敵に教えることではないかと。私は常にこれに答えて、支那のために教育を興すのは、支那を強くして日本を弱くしようと欲しているのではなく、世界の一等国として列し、相互に助け、共に一層強くなって、白人と争うことを欲しているのである。支那の教育が興った後、日本はどうして再び進歩することなく、なお今日の日本のごとくであることがあろうか」。

嘉納は、日中関係は相互に利益をもたらすもので、共同して西洋列強に挑戦することの歴史的必然性を訴えている。「自他共栄」である。

嘉納は平和主義者であり、中国の平和があってはじめてアジアの平和が保て、アジアの平和があってはじめて日本の平和を維持できると考え、中国が強大になってアジア及び世界の平和をしっかり守ることを希望したのであり、これが嘉納が中国の教育改革に参与した重要な動機であった。

嘉納は述べている。「私は今宏文学院を設立し、清国留学生に先ず日本語及び普通教育を教授している。これをもって各種専門学校に入学する準備とし、また別に速成科を作って期間を短縮して専門の学を修めさせる。総じて言えば、我国人はよく清国に注目し清国に赴き一切の事柄を調査し、国内にあってはまた清国の人を信頼し、もって両国関係の事業を謀り、両国の利益を図るべきであり、これが私の希望するものである」。

清朝末の日中教育関係に重大な影響をもたらす鍵となる人物として、嘉納が中国の教育改革に参与した動機は複雑で多面的であり、それは日本の文化意識と理想の追求において生まれ、かつ西学東漸の国政的背景のもとで形成された。

ハーンの嘉納柔道論

ラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)は嘉納の招聘を受けて第五高等中学(現熊本大学)の英語教師となった。ハーンは校長嘉納を敬愛し「柔道」を書いた。(以下「東の国から」(ハーン)の「柔道」より)。

「官立高等学校(第五高等学校)の校庭に、ほかの校舎とひときわ建て方の違った建物が、ひと棟ある。この建物は、紙の代わりに、ガラスをはめた障子が入れてあることだけを除けば、あとは、純日本風な建物だといってさしつけない。間口も広く、奥行きも深い、一階建ての建物で、なかはだだっ広い、百畳敷きの部屋がひと間あるきりである。この建物には、名前がついている。日本の名前で、「瑞邦館」―「浄らかな国の大広間」という意味だ。(中略)。なお、壁間の額には、勝伯(勝海舟)の書で、漢字が幾字か書かれてある。「深い知識は最上の財産である」と言う意味の文字である」。

「このだだっぴろい、飾り気のない部屋で教えられる学問は、いったい何であるかというと、それは柔術と申すものである。しからば、柔術とは、いったい何であるか。
いったい、柔術というものは、これは昔のサムライがえもの(武器)を持たずに、相手と戦った術なのである。柔術について何も知らない門外漢が見たら、ちょっとレスリングみたいに見える。かりに諸君が、「瑞邦館」で稽古が始まっている時に、たまたまそこへ入って行ったとする。諸君はそこに、一団の生徒がぐるっと回りを取り巻いた、その真ん中のところで、十人か二十人ぐらいの、体のしなやかな若い生徒たちが、素足素手で、おたがいにくんずほぐれつしながら、畳の上で相手を投げたおしている光景を見られるだろう。そのとき、きっと諸君が奇妙に思われることは、室内が死んだように声ひとつしないことだろう。ひとことも物を喋っているものがない。もちろん、やんやと囃し立てたり、興にのったり、そんなそぶりをするものは、絶対にいない。にやにや笑っているものさえいない。絶対の平静自若、―これが柔術道場の鉄則で、厳格に規則で決められていることである。それにしても、部屋全体のこの平静さ、そして、これだけの人数のものが、みな息を呑んで、しーんと静まりかえっているこの光景。これは、諸君に偉観だという印象を与えることは請け合いである」。
「わたくしが、特に諸君の注意を促したいのは、柔術の達人になると、自分の力というものに決して頼らないという事実だ。そういう達人になると、最大の危機に臨んでも、自分の力というものは、ほとんど使わないのである。それでは何を使うかというと、相手の力を使うのである。敵の力こそ、敵を打ち倒す唯一の手段なのだ。つまり、柔術が諸君に教えるものは、勝利を得るには、必ず相手の力のみ頼れ、ということなのだ。そして相手の力が大きければ大きいだけ、相手には不利になり、こっちには有利になるのである。それについて、今でも私は憶えているけれども、あるとき、柔術の大師範のひとり(嘉納治五郎)から聞かされた話で、大いに驚いたことがある。それは、わたくしが柔術のことは何にも知らずに、ただ自分一人の考えだけで、クラスの中ではあれが一番かなと思っていた、ある力の強い生徒がいたが、ところが、その大師範に言わせると、その生徒には、どうもやってみると、非常にわざが教えにくいというのである。なぜでしょうかといって聞いてみたら、こういう答えであった。「あの男は、自分の腕力に頼りおって、それを使いよるのでなあ」と。「柔術」という名称そのものが、すでに、「身を捨てて勝つ」という意味なのである」。
大師範嘉納の柔道論を賞賛していることは言うまでもない。
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日本の近代スポーツの道を開いた嘉納は、1909年(明治42年)にはフランスのクーベルタン男爵に懇望されて、東洋初のIOC委員となる。1911年(明治44年)に大日本体育協会(現日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年(大正元年)、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピックの招致に成功した。ベルリンから「オリンピック、東京決定」を告げる日本向けラジオ放送があった。放送局でIOC委員・副島道正は感動のあまり声が出ず、マイクの前に平伏しむせび泣いた。同じくIOC委員・嘉納師範が喜びの声を届けた。
「思いがけない大勝だった。24年前に金栗(四三)、三島(弥彦)の2選手(両名とも陸上)を連れてストックホルムに行った時は、まるで勝海舟が(遣米使節随行の咸臨丸で)渡米した時のような気持だったが、東京での開催は、オリンピックが真に世界的なものになると同時に、日本の真の姿を外国に知ってもらうことが出来るので、二重に嬉しい」。嘉納は旧幕臣勝海舟を畏敬する。

だが日中戦争の激化により、オリンピック開催は返上に追い込まれる。

参考文献:「中国人日本留学史研究の現段階」(大里浩秋ら編)、「嘉納治五郎」(講道館)、「嘉納治五郎師範に学ぶ」(村田直樹)、「東の国から」(ハーン)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)

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