予言のような言葉 原爆忌と原発(上)

By 江刺昭子

浦上天主堂のミサ。祈りを捧げる

 「広島と長崎の原爆を生き延びた被爆者の方々は、ここ日本のみならず、世界中で、平和と軍縮の指導者となってきました。彼らが体現しているのは、破壊された都市ではなく、彼らが築こうとしている平和な世界です」

 8月9日、長崎原爆忌に出席した国連事務総長はこう述べて、被爆者の苦しみを理解し、核兵器禁止条約を全面的に支持するとした。その発言に核廃絶への希望を託したいが、わが首相は無情にも、条約は「安全保障の現実を踏まえていない」と批判、不参加の考えを改めて鮮明にした。

 原爆忌の報道に隠れて目立たなかったが、もう一つ見逃せない動きがあった。広島の北隣り、島根県の松江市で建設中の島根原発3号機について、中国電力が新規稼働に向け、原子力規制委員会に審査を申請した。今夏の異常な暑さの中でも電力需要に余裕があるのに、なぜ新たに稼働させなければならないのか。政府は今後、30基程度の再稼働を目指しているという。

長崎の平和祈念式典であいさつするグテレス氏

 原爆と原発はどちらも核エネルギーによる。ひとたび放射性物質が空中に飛散したときの被害は、原発であってもどれほど深刻か、福島第一原発の事故で私たちは身に染みた。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマはひと続きの出来事なのだ。

 原爆と通常兵器との大きな違いは、被爆時の熱線と爆風による被害だけでなく、あとから家族を捜しまわったり、救援のために汚染地域に入ったりした人も二次被爆し、後遺症を抱えることだ。健康不安は被爆者自身だけでなく、子や孫の世代にまで及ぶ。それはそのまま福島原発事故の被曝者の現実でもあろう。

 そうであるのに、いま、どちらもその経験の風化が懸念されている。

風化に抗する強固な意思による仕事として、ここで2人の文学者の歩みを紹介したい。2人とも原爆によって放射能の恐ろしさを身をもって知り、原爆被害について繰り返し書き、原発の危険性を早くから訴えた。

 広島で被爆した詩人の栗原貞子(1913~2005)は敗戦の翌年、占領軍の報道管制をくぐって詩集『黒い卵』を自費出版。負傷者で埋めつくされたビルの地下室で、生れてくる赤ん坊をとりあげた産婆が血まみれで死んだ実話をもとにした「生ましめんかな」は広く読まれている。

広島原爆忌の平和集会で自作の詩を朗読する栗原貞子さん=02年8月6日

 彼女はその後も地元で文化運動にかかわりつつ、反核をモチーフに詩やエッセイを世に問い続けた。ベトナム戦争のさなか、かつての軍都・広島を自覚し、日本の加害責任に目を向けた「ヒロシマというとき」を発表した。

 湾岸戦争の年には、「原爆紀元四十六年」に「一度目はあやまちでも/二度目は裏切りだ」と告発し、「崩れぬ壁はない」では、朝鮮半島に対する日本の戦前戦後にわたる責任を問い、「北と南の被爆者と 日本の被爆者が手を結び/分断の壁に風穴をあけよう」と提案している。朝鮮半島情勢が流動している今こそ耳を傾けるべきだろう(2作とも『問われるヒロシマ』所収)。

 『反原発事典』第Ⅱ集に「原爆体験から―原爆と原発は二体にして一体の鬼子」を寄稿したのは1979年。被爆の悲惨な実態を詳しく説明したあと「広島、長崎の二次放射能による被爆者と原発による被曝者は、同じ条件の共通の被爆者である」、「原爆と原発はともに許されざるもの」と警告している。米スリーマイルアイランドで原発事故が起きた年だが、この文章が書かれたのは事故の直前。予言のような言葉となった。

国内ではすでに原発立地に反対する運動が各地で起きており、86年にはソ連でチェルノブイリ原発事故も発生したが、政府や電力会社の「日本では起こり得ない」という安全神話を信じ込まされ、フクシマまでに狭い国土に50基を超える原発ができた。(女性史研究者・江刺昭子)=続く

最初の被害者は誰か  原爆忌と原発(下)

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