林京子(1939~2017)は、長崎の女学校3年生のとき、学徒動員中の兵器工場で被爆した。同学年の少女たち52人が9月末までに亡くなり、彼女はかろうじて命を拾ったものの急性原爆症を患い、結婚して子をもうけたのちも、後遺症に苦しんだ。
被爆の実相を描いた『祭りの場』で芥川賞を受賞し、作家デビューする。その後も体験をトータルに把握する方法を探りつつ、放射能被害の世代間連鎖に怯える人びとの姿を『やすらかに今はねむり給え』、『長い時間をかけた人間の経験』などに描き続けた。
ジェンダーの視点も鋭い。結婚差別や出産の不安など、女にとって被爆はより重いと訴えた。「原爆フェティシズム」と批評家から暴言を浴びせられても、「わたしにとって書く意味があるのは、8月9日しかない」と語り部としての決意を貫いた。
父の勤務の関係で長崎に引き揚げる1945年春まで上海で暮した。『ミッシェルの口紅』では楽しく輝いていた子ども時代を描いたが、『上海』では自分はそこにいてはいけない侵略者の子であったことに気づいている。
米スリーマイルアイランドの事故のとき、テレビで母と子が手をつないで逃げるのを見た。映像の中の母子と、34年前、疎開先から自分を迎えにきて「どこまで逃げればいいのだろうね」と独り言を言った母の姿が重なった。
「本当にどこまで逃げればいいのだろう。そして世界じゅうが核物質で汚染されつつある今日を」と危機感を表明している(「何処まで逃げればいいのだろうか」『文化評論』79年8月号)。チェルノブイリで、そしてフクシマでも繰り返される悲劇である。
99年9月、茨城県東海村のJCO東海事業所で臨界事故が起きた。そのとき林は、アメリカで最初に原爆実験が行われたトリニティ・サイトに向かっており、帰国後、東海村の農家で取材した話をもとに『収穫』を書く。
老農夫はその日、原発施設と農道一つ隔てた畑でさつま芋を収穫する準備をしていた。事故が起こり、飼っている犬が激しく吠えた。施設のある塀の中が騒がしくなり、マスコミがおしかけ、住民に退去命令が出たが、彼は「逃げてもしかたがない」と犬とともに残った。収穫するはずだったさつま芋をそのままにしておくのはかわいそうだと、掘り出して畑に積んだ―。
目に見えない、においもしない、それゆえに不気味な放射能の被害を淡々と描き、フクシマ後の人びとの姿を予感させる。
12年後、福島第一原発の事故が発生。そのとき初めて、微量であっても放射性物質を取り込むと、物質によっては人の寿命を超えるほど長い時間、放射線を放射し続けることを、多くの人が知った。林は「内部被曝」や「低線量被曝」という言葉を知らないまま死んでいった友人たちを思い、慟哭している。
トリニティ・サイトに立ったときの思いは、「トリニティからトリニティへ」に書き残している。最初に原爆の被害を受けたのは、実験が行われた大地であり、そこに生きていた植物や動物であったことに気づき、さぞ熱かっただろうと「私」は涙を流す。
核の被害は一地域、一国にとどまらず地球全体、ヒトだけでなく命あるもの全てに及ぶ。その視野を獲得し、「核文学」の到達点を示した作品である。
ヒロシマ・ナガサキの被爆者の平均年齢は82歳。体験の忘却と風化が危惧されている。確かに、新しい作品や証言は得にくくなっているが、原爆をテーマにした表現は、小説、ルポ、エッセイ、評論、漫画、絵画、写真、映像、アニメなど多岐にわたっている。プロの表現者に限らず、あの日そこにいた人びとの証言も加えると、おびただしいと言っていいほど、体験の記録が蓄積されている。そして、フクシマについての記録・作品も日々生みだされている。
これらを図書館の書庫や関係施設の資料室に眠らせておくことなく、大いに活用して、人々が接する機会を増やしたい。劣化や散逸を防ぐため、デジタル化も急いでほしい。
いつでも、どこでも、読んだり、見たり、聴いたりできるようになれば、体験の本質は次世代に受け継がれ、生かされていくはずだ。(女性史研究者・江刺昭子)