【熊本城のいま】だれが呼んだか「武者返し」

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熊本城の本丸御殿の南西側から見た「二様の石垣」。左側の石垣の方が、より勾配がきつい。左奥は天守閣=2017年1月24日撮影
熊本城の石垣にちなんで名付けられた洋菓子「武者がえし」。奥は20分の1スケールの熊本城天守閣のミニチュア模型=熊本市のお菓子の香梅白山本店

 熊本城の石垣のそりを表す「武者返し」。観光ボランティアガイド「くまもとよかとこ案内人の会」の吉村徹夫会長(69)は「観光客に武者返しを説明する場所は、加藤神社から見える宇土櫓[やぐら]の石垣。地震後、そばで高い石垣を見られるのはそこしかないから」と話す。熊本市の熊本城総合事務所は、城の歴史や特徴を紹介するホームページで「忍者も登れない『武者返し』」とタイトルを付け、石垣を「熊本城の特徴のひとつ」と紹介している。

 実はこの呼び名は通称。市の熊本城調査研究センターによると、古文書に書かれているわけでもなく、いつ、だれが名付けたか分からないという。

 また熊本城の石垣は積み方が多様で、どこの石垣が「武者返し」なのかも不明だ。熊本城に詳しい熊本城顕彰会理事の富田紘一さん(74)でさえ「いつから呼び名があるかは知らない」。

 ただ富田さんは、著書『熊本城 歴史と魅力』(熊本城顕彰会)で、「武者返し」のひとつの根拠を示している。それは、江戸時代後期の肥前平戸藩主・松浦静山[せいざん]の随筆『甲子夜話[かっしやわ]』にある、熊本城の石垣の様子を記したものだ。<(石垣を)カケ上ルニ四五間ハ陟[のぼ]ラルゝガ、石垣ノウエ、頭上ニ覆[おおい]ガヘリテ空見エズ>

 「この表現が武者返しの状況に近い」と富田さん。また、富田さんは著書の中で、2種類の勾配の石垣が並ぶ有名な「二様[によう]の石垣」のうち、急な方を「最初から『武者登れず』の石垣といえよう」と“命名”している。

 「武者返し」の由緒を追って、パイであんこを包んだ洋菓子「武者がえし」を製造・販売するお菓子の香梅(熊本市中央区)を訪ねた。同社によると、この菓子が生まれたのは1977年11月7日。発案した副島隆会長(76)によると、75年ごろ創業者の父親に「洋菓子をやれ(作れ)」と言われ、あれこれ思案したという。

 「発売当初は洋菓子らしくカタカナの名前だった」と副島会長。ふと、焼き上がった形が熊本城の石垣のように見えた。父親が菓子に「陣太鼓」「五十四万石」と、江戸時代の熊本を思わせる名前を付けていたこともあり、「武者がえし」に変えたという。当時も武者返しの呼び方は一般的だったようだ。

 「熊本の人は、熊本城があることが当たり前だと思っている」と副島会長は言う。「熊本城の価値を理解して、価値観を高めるべき。そうすれば(観光など)ほかの面は自然についてくる」(文化生活部・飛松佐和子)

(2018年8月24日付 熊本日日新聞朝刊掲載)

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