日産休部、パナソニック退社…都市対抗野球に戻ってきたJR東海監督の思い

JR東海の監督を務める久保恭久氏【写真:篠崎有理枝】

JR東海を率いる久保監督、日産自動車野球部は休部まで10年間指揮

 大阪ガスの優勝で幕を閉じた今年の都市対抗野球大会。そんな中、3年ぶりの出場となったJR東海は、惜しくも準々決勝で敗退したものの、強豪のパナソニック、トヨタ自動車を破る健闘を見せた。

 同チームの監督を務めるのは、昨年12月に就任した久保恭久氏だ。久保氏は日産自動車野球部(2009年休部)で2000年から休部までの10年間指揮を執り、2003年の日本選手権で優勝、2005年、2006年の都市対抗では2年連続準優勝を成し遂げた。日産自動車の休部後はパナソニックに移籍し、3年間監督を務めた。そして今年、JR東海の指揮官として自身5年ぶりに東京ドームの舞台に戻ってきた。そんな久保氏に、日産自動車の休部時の心境や、JR東海の監督に就任するまでを語ってもらった。

 日産自動車野球部は1959年に創部。強豪チームが揃い戦国と言われた神奈川で、都市対抗出場29回、2回の優勝経験があり、梵英心(元広島)や野上亮磨(現巨人)など数々のプロ選手を輩出した名門だ。しかし、創部から50年目の2009年、経営不振のあおりを受け休部となった。

「『リーマンショックがどういう影響を及ぼすかな』とは考えていましたが、休部になるとは思いませんでした。野球部員を絞る話もありましたが、人を絞っても野球部は続けさせてもらえると思っていました」

 2009年2月に年内での野球部の休部が発表された。休部決定後、社内では野球部存続の署名活動が行われたが、野球部は反対運動を行わなかった。このことについて「決まっていることに対して声を上げることが怖かった」と当時の心境を振り返る。

「役員会で決まったことに対して声を上げるということは、決定を覆してもらいたいということになる。それまで野球部として会社にお世話になっていたのに、自分たちの都合のいい行動はとりたくなかった。会社に失礼にならないやり方が思いつきませんでした。自分たちができることは、それまで野球でやってきたことを認めてもらい、その結果で休部という決定を覆してもらうしかなかった。そこに賭けるしかありませんでした」

パナソニックでは優勝に届かず「契約を更新しないと言われ、潔く会社を辞めました」

 休部が決定した2009年の都市対抗では準決勝進出、日本選手権でも準決勝に進出したが、それでも決定が取り消されることはなかった。

「社内には野球を続けたい人はたくさんいたし、続けられると思っていました。それでも、打ち切られたということを認め、割り切るしかありませんでした」

 休部が決まってから、久保氏は寝る間も惜しんで選手たちの移籍先を探した。その結果、移籍を希望していた選手たちは、新天地で新たなスタートを切ることができた。

「選手たちには『一人前になれ』と言って指導してきました。それにチャレンジしてくれた選手たちに継続できる場所を与えたかった。その一心でした」

 自身は日産自動車を退社し、2010年5月にパナソニック野球部へ移籍。翌2011年から監督を務め、3年連続都市対抗出場、2012年、2013年は準々決勝進出を果たした。しかし優勝には届かず、同年、契約終了と共にパナソニックを退社した。

「それまでお世話になった日産を辞めることは、本当に悩みました。それでも、野球を続けたかった。パナソニックでは1年ごとの契約でしたが、3年目に契約を更新しないと言われ、潔く会社を辞めました。日産から動いた時点で覚悟して行っています。日産の休部に比べれば自分の決断だけで済む。その分、気は楽でした」

 その後はさまざまな大学、高校、中学校へ自ら出向き、子供たちに野球の指導を続けた。

「野球を継続していれば何らかの形で違ったものが生まれてくると思っていました。自分の大学の先輩が、大阪の大学で監督をやっていたので『時間ができたからお邪魔していいですか』とお願いして指導に行きました。大学の練習は夜なので、夕方は兵庫の高校に行ったり、中学にも行きました。掛け持ちでいろいろな学校を回りました」

「社会人野球は大人の世界、自己責任」

 社会人チームの監督を務めていた時より、収入は減った。それでも「お金だと思っていない」と言う。

「兵庫の公立高校のチームは、2時間で5000円でした。交通費が往復で1500円かかるので、実質手取りは3500円。でもそのお金を、部員15人の部費からやりくりしてもらっていた。『このお金は重いなぁ』と思っていました」

 それまで社会人を指導していたため、学生に自分の考えを受け入れてもらえるか不安があったというが、子供たちと心を通わせながら指導に当たった。

「『この親父と会話してくれるかな』と思いながら接しました。キャンプで挫折して練習に来なくなった子に『待っているぞ』と声をかけ続けていたら戻って来てくれたり、今でも手紙をくれる子がいたり。嬉しいですね」

そんな久保氏に、JR東海から声がかかり、昨年12月に監督に就任。5年振りに社会人野球の世界に復帰した。都市対抗予選まで短い期間だったが、激戦の東海地区予選を勝ち抜き、第5代表で本大会出場の切符を掴んだ。本大会では惜しくも準々決勝で敗退したが、自身の古巣でもある強豪パナソニック、そして東海地区第一代表のトヨタ自動車を破る健闘を見せた。

「選手たちに話していることは『自分たちで考えなさい』ということです。社会人野球は大人の世界、自己責任です。チームの決めごとと自分たちのやっていることを照らし合わせる。それを選手たちが実践してくれた結果です」

 再び東京ドームのグラウンドに立ち「こういう世界に戻らせてもらえたんですね」と感慨深く話す久保氏。日産自動車の休部が決定したとき、どうすることもできなかった当時の無念を胸に秘め、成し遂げることができなかった都市対抗優勝を目指し、新たなチームで手腕を発揮する。(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)

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