僕がそこへ行く理由 第6回:マイゴマの笑顔

2003年、スーダンの孤児院にて

2003年、スーダンの孤児院にて

 国境なき医師団(MSF)のスタッフとしてスーダンの活動に赴いた加藤医師。そこでは多くの赤ちゃんが捨てられ、亡くなっていました。強い思いを抱いて挑んだ初の活動で、「助けられない」責任を背負いこんでしまい…。15年にわたって援助活動に携わってきたMSF日本会長の小児科医・加藤寛幸医師が、援助の現場で得た、大切な出会いや経験を綴る全13回の連載です。

※2018年4~6月、静岡新聞「窓辺」に連載された記事を掲載しています。

MSFで初めて赴任したスーダン、マイゴマの孤児院

MSFで初めて赴任したスーダン、マイゴマの孤児院

 最初の活動地、スーダンのマイゴマ孤児院で、赤ちゃんを助けられない責任の全てを1人で背負い込んでいた僕は、休養を取る同僚を横目に休日返上で診療に当たりました。また、理由はどうあれ赤ちゃんを抱き上げない現地スタッフに強い口調で指示を出してしまったこともありました。結果、チームの中にわだかまりが生まれ、気がつくと僕は孤立してしまいました。チームリーダーは帰国を勧めましたが、僕は首を縦に振らず、赤ちゃんを救うため、違うアプローチを受け入れました。

医師に抱かれる孤児院の赤ちゃん

医師に抱かれる孤児院の赤ちゃん

現地スタッフには英語と片言のアラビア語でできるだけ声を掛けました。指示を出しても舌打ちされて気落ちすることもありましたが、オムツを換えないスタッフがいれば自分で換え、時間の許す限り率先して、抱っこや授乳、沐浴(もくよく)を行いました。赤ちゃんのベッドに一つずつ名札をかけ、赤ちゃんを名前で呼ぶよう促しました。大人用の点滴は量が多く危険なため、料理用計量カップで使用前に捨てる量を測りました。

助かる赤ちゃんが徐々に増えてくると、孤児院の中に赤ちゃんやスタッフの笑い声が広がり始めました。帰国前、スーダンの舌打ちが「了解」を意味すると知りました。
 

活動により、命が助かる赤ちゃんが徐々に増えていった

活動により、命が助かる赤ちゃんが徐々に増えていった

僕の赴任時に100人だった孤児院の赤ちゃんの数は帰国時には250人を超えていました。半年で100人近い赤ちゃんをみとり疲れ果てて帰国する僕に「お前がいなかったら何倍も死んでいたはずだ」と声を掛けてくれたのは僕に帰国を促したリーダーでした。 

僕がそこへ行く理由 これまでの連載を読む

第1回:1人の少女との出会い
第2回:損をすると思う方を選びなさい 
第3回:最も弱い人たちのために働く
第4回:東京→シドニー→バンコク
第5回:違法な子どもたち
第6回:マイゴマの笑顔

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