「信仰守った先祖 誇り」 五島キリシタンの新天地 福岡・新田原(行橋市) 世界遺産登録

 福岡県東部の新田原(しんでんばる)地区(行橋市)は大正末期以降、五島列島からたくさんのカトリック信徒が移住した地域だ。大半の信徒の先祖は、キリスト教が禁じられた17~19世紀に、ひそかに信仰を守った「潜伏キリシタン」だった。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録を受けて新田原を訪ねると、「信仰を守り抜いた先祖を誇りに思う」と自らのルーツに思いをはせる人たちと出会った。
 7月中旬。長崎市から車で約3時間かけてカトリック新田原教会に着いた。新田原は福岡県内有数の果樹産地。出迎えた50~80代の信徒がくれた桃を口に入れると、みずみずしく、さわやかな甘みが広がった。
 2017年の新田原教会の信徒数は約1520人。そのうち、実に約9割のルーツが五島という。先祖が住んでいたのは、五島列島全域に点在していた潜伏キリシタン集落だった。
 新田原教会の「75周年記念誌」(06年発行)によると、1975年の調査では、新田原小教区の信徒351世帯のうち224世帯(64%)が五島列島出身。出身地の最多は仲知(新上五島町)の53世帯で、以下奈留島(五島市)32世帯、青砂ケ浦(新上五島町)23世帯、久賀島(五島市)16世帯が続いた。久賀島をはじめ、五島列島にある潜伏キリシタン遺産の4構成遺産の集落からも移住している。
 彼らはなぜ、大挙して新田原に新天地を求めたのだろうか。

◎「信仰のバトン」つなぐ 先人切り開いた“楽園”で 五島ルーツの信徒ら
 五島列島から新田原(しんでんばる)への移住が始まったのは大正末期から昭和初期とされる。新田原教会の「75周年記念誌」によると、1926(大正15)年、北海道の修道院の分院が新田原に建設された。そこで働いていた修道士の中に五島出身者がいた。
 当時の新田原は大部分が未開の地。「開墾すれば広い土地が手に入る」。修道士らを通じ、貧しい五島列島の信徒に「新天地」の話が伝わっていった。だが、信徒が何よりも引かれたのは「ミサにあずかれる」ことだった。1933(昭和8)年には尖塔(せんとう)を持つ美しい旧聖堂が新田原に完成していた。
 上五島がルーツの大水健二さん(67)は祖父から衝撃的な話を聞いたことがある。1873(明治6)年の信仰解禁から半世紀が過ぎた昭和初期、信徒を閉じ込めた木のおりに火が付けられたのを見たという。信仰解禁後も信徒が差別にさらされていた地域もあった。「当時の信徒にとって新田原は“楽園”と映ったのではないか」
 ただ、“楽園”の開拓は苦労の連続だった。現代のように重機や車両はなく、くわなどを使った重労働。開墾作業の合間には、中国・四国地方から移住した農家の果樹栽培を手伝ったり、漁に出たりして生計を立てた。だが、山の斜面地で隠れ住むようにして暮らした五島に比べ、平地に住める幸せも感じていたという。
 取材に集まってくれた信徒は全員が生まれてすぐに洗礼を授かった。父方が頭ケ島、母方が仲知出身の谷口初男さん(70)は高校時代、自分がなぜカトリックなのか自問自答して考え抜いた末、一つの結論に達した。「潜伏期に先人が命懸けで守り抜いた信仰。その歴史こそ、信じるに足るものだ」
 新田原の信徒にとって大事なルーツである五島の集落が世界遺産になった。「自分たちとはあまり結び付かない」というのが本音だ。ただ、ずっと受け継いできた「信仰のバトン」は今、自分たちが握っている。
 「昔の人は迫害や貧しさに耐え、子や孫にしっかり信仰をつないでくれた。私たちも次世代に渡していかなければならない。そして、先祖が切り開いた新田原をずっと守っていきたい」。大水さんが自分に言い聞かせるように言った。
 かつて信仰を守るために長崎・外海地区から海を渡り、五島に集落を築いた潜伏キリシタン。その子孫はふたたび「旅」に出て、新田原で穏やかに暮らしている。

昭和初期の新田原の信徒たち(カトリック新田原教会提供)
「先人に感謝したい」と話す五島列島がルーツの信徒たち=福岡県行橋市、カトリック新田原教会前
1933年に建設された旧新田原教会。75年に現在の教会に建て替えた(カトリック新田原教会提供)

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