【秋津鋼材創業70周年】〈昭和45年寝屋川に工場、CC業に〉現場力の強さ生かし、高付加価値加工

 秋津鋼材の創業者は、北雅久社長の父・順三氏。順三氏は大正7年(1918年)に兵庫県伊丹市で生まれ、旧制広島高等学校を卒業後、川西航空機(現在の新明和工業の前身)に入社した。戦前・戦中は航空機制作に関する技術者として勤務。戦後は大阪で親戚の金物店を手伝った。これをきっかけに帯鋼に関心を持ち始め、昭和23年(48年)9月に磨き帯鋼の材料問屋「秋津商店」を大阪市天王寺区で設立した。北社長によると、「当初はリロールメーカーを目指した」ようで、商材は帯鋼一本でスタート。日亜製鋼(現日新製鋼)の指定問屋となった。

 しかし、昭和34年9月29日、事故で急死する。その後を継いだのが妻の智津子氏で、34歳の若さで社長に就任することとなった。当時、北社長は小学4年生だった。

 智津子氏は専業主婦から一転、会社社長となったが、その後も社員に支えられながら同社は順調に発展を続ける。昭和45年には寝屋川工場を開設。問屋業からコイルセンターとなった。「大型および小型スリッターがそれぞれ1ラインあり、月産量は1500トンだった」という。

 昭和53年には奈良に新築・移転し、大型スリッターを1ライン増設し、現本社工場の基盤を築いた。月産量は5千トンにまで拡大している。

 また、昭和58年にはステンレス事業の拡大を目指し、「同和ステンレス」を子会社化。現在、秋津鋼材は同和ステンレスの経営から撤退しているが、同社は独立して事業を続けている。

 昭和60年には秋津鋼材創業40周年を契機に智津子氏は経営の一線を退く。社内外から4人の社長を迎えた後、平成8年(96年)に同社7代目社長に北雅久氏が就任した。オーナー家による経営に戻ることとなり、この経営体制は現在も続いている。

社名の由来は赤トンボ

 「秋津」という社名は、1934年に正式採用された川西航空機製の海軍練習機「九三式中間練習機」に由来している。同機は安定性・信頼性が高く、扱いやすく、さらに高等技術が必要な飛行もできたことから、あらゆる練習航空隊に配属されていたという。創業者・順三氏は技術者としてこの練習機の制作に携わった。

 当時の日本軍の練習機は目立つように橙色に塗られ、通称「赤とんぼ」と呼ばれていた。トンボはかつて「秋津虫(あきのむし)」と呼ばれ、古事記・日本書紀・万葉集で「秋津」は、大和や日本を指す言葉としても使われている。

ベルトブライドルなど他社に先駆け技術導入

 同社の経営を支える強みのひとつが現場力の高さ。

 同社は最新設備や技術の導入に積極的であり、いまではCCで幅広く利用されているベルトブライドルについて、昭和56年に開発メーカーと協力しながら、第1号機を導入している。

 また、昭和60年に製品自動倉庫を導入しているが、当時はこれを使うCCはほとんどなかった。北社長は当時を「ステンレスが増えたことで品質向上を目指そうとして投資を決めた。いまなら数億円だが、当時は数千万円で導入できた」と振り返る。

 また、クラッド鋼板の加工を昨年から手掛けているが、これも0・1ミリピッチで切断面を管理できる同社の技術力が生かされ、受注することができた。

 このほか、技術手当を導入するなどし、設備だけでなく、現場作業者の人材確保・育成にも注力している。こうして高めた現場力の強さが、厳しい品質・納期対応力などを要求される付加価値の高い加工を受注できる源泉となっている。

北雅久社長インタビュー/オーナー系CCとして安定的・持続的な発展目指す/社員が長く働ける会社に

 薄板コイルセンター(CC)の秋津鋼材(本社・奈良県大和郡山市、社長・北雅久氏)は今月1日、創業70周年を迎えた。優れたスリット加工技術を強みとし、付加価値の高い受注を増やすことで、安定した経営を続けている。これまでの歩みと今後の展望などについて、北社長に話を聞いた。(宇尾野 宏之)

――創業70周年を迎えた感想は。

 「創業者の急死から始まり、オイルショック・阪神淡路大震災・リーマンショック・東日本大震災などを経て、よくここまで来られたなというのが正直な感想。30年以上も経営トップを務めた母、そして彼女を支えてくれた社員・顧客・仕入れメーカー・商社・銀行など皆さんに改めて感謝したい。おかげさまで会社だけでなく、母はいまも元気にしている」

――厳しかった時期は。

 「当社だけでなく、中小企業はどこかで山谷を超えながら、事業を継続していると思う。当社にとって谷のひとつとなるのは、奈良工場を建設するため、6億円を借り入れたこと。負債が大きくなっただけでなく、数量を求めたことで薄利多売にもなり、自己資本比率は5%程度にまで落ち込んだ。このときは、不要資産を売却し、身の丈に合った経営体制とし、バランスシートを整え、自己資本比率を高めることで、何とか立て直すことができた。これ以外にも危機に直面したことはあったが、鉄鋼・ステンレスの加工販売という本業に徹し、乗り超えてきた」

――足元の加工量は。

 「ステンレスで月産2千トン、普通鋼で4千トン。時代の流れとともに、加工する板厚はピーク時の半分程度になっている。ステンレスに至っては3分の1程度だ。いまは数量をかき集めて儲ける時代ではない。ピーク時の売上高は180億円程度だったが、経常利益は5千万円ほど。いまは売上高60億円程度だが、当時よりも利益率は改善し、収益も増えている」

――内需は減少傾向にあります。

 「全国CC工業会による出荷量統計を見ても、バブル期には年2300万トンだったが、いまは1650~1700万トン水準。薄板CCを取り巻く環境は厳しいと言わざるを得ない。そうした中にあって、オーナー系CCとして、どう生き残っていくのか。たとえば、加工する品種や板厚の違う同業他社との提携もひとつの手段だ。また、設備更新など企業が存続するために最低限の収益を確保することは必要だろうが、必要以上に儲けることもない。投資効率が多少悪くなっても、長いスパンで経営を考えられるのは、オーナー系CCの強みのひとつだろう。需要がシュリンクしたとしても、産業の米である鉄がなくなるわけではない。地道に本業を継続する日々の実直な行動は、必ず成果を生むはずだ」

――設備投資は、どう考えていますか。

 「寝屋川工場時代からある3号スリッターの入れ替えを検討している。今後は、さらに板厚の薄いものにも対応できる設備を整えるのが急務だ。厚物は他社との提携などで対応していければと考えている」

――人材の確保・育成も課題です。

 「人材を確保するため、給与や労働時間など待遇を良くしながら、働きやすい職場をつくっていくのが重要だろう。人材の育成については、セミナーばかりではなかなか上手くいかない。先輩が帯同し、仕事をしながら教え込むような、古臭い船場の商法も教育の一手かもしれない」

――6年ほど前にはタイ進出も検討しました。

 「国内の商売だけでは厳しいのではないかと考えた。タイ・バンコクの現地法人と提携し、合弁会社を設立した。3年半ほどの期間、事業を拡大しようと取り組んだが、日本と違い、高級ステンレスを自動車以外で拡販するのは難しく、結局は普通鋼頼みとなった。またパートナーとの基本的な考え方の溝も埋まらず、提携を解消した。累計で4千万円ほどかかったが、いい勉強だった。やはり、国内に基軸を置くことの重要性を再確認した。幸いにもスリット加工の技術は人様に引けをとらないレベルまで上がっている。薄利多売に陥ることなく、普通鋼やステンレス、異鋼種まで幅広くカバーできるCCを目指したい」

――これからの秋津鋼材について。

 「これが正解と言える将来像はない。オーナー系CCは少なくなったが、安定的に堅実に長期に発展を目指していく。幸い、後継者に関してもめぼしがある。スムーズな事業継承ができるよう、仕組みを整えたい。また、本業である付加価値の高い薄板加工を徹底し、お客さんから『秋津鋼材に頼めば安心だ』とこれからも思っていただけるようにしていく」

 「また、社員がより長く働ける制度もつくりたい。いまは60歳からは雇用延長をしているが、さらに雇用を継続できる手立てがないかと考えている。当社グループ内で新たに起業したり、またはシルバー人材センターと連携しながら、仕事を創り出していく。後継者候補の意見も取り入れながら、当社の将来像をより鮮明に定めていきたい」

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