戦争、生きる勇気くれた「物語」

「魔女の宅急便」角野さんに「児童文学ノーベル賞」

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国際アンデルセン賞の授賞式で、賞状を掲げる角野栄子さん=8月31日、アテネ(共同)

 「魔女の宅急便」や「アッチ・コッチ・ソッチの小さなおばけシリーズ」などの代表作で知られる、児童文学作家の角野栄子さん(83)が8月31日、ギリシャの首都アテネで国際アンデルセン賞の授賞式に出席、メダルと賞状を授与された。国際児童図書評議会(IBBY)が主催するこの賞は「児童文学のノーベル賞」とも言われる。今年の作家賞に選ばれた角野さんのスピーチ全文は次の通り。 (まとめは共同通信・津村一史)

 カリスペラ(ギリシャ語でこんばんは)

 こんばんは、角野栄子です。

 このたびは国際アンデルセン賞という栄誉ある賞をいただき、心から感謝申し上げます。

 第2次世界大戦が終わってまもないころ、子どもの文学を通して、これからの世界の平和を願ったIBBY創設者であるイエラ・レップマンさんの高い志に、心からの敬意を表します。

 この戦争のまっただ中、私は日本の10歳の女の子でした。あの過酷な時期を本によって、どれほど慰められ、生きる勇気を与えられたか知りません。ですから、この賞は私にとって、特別な意味を持っています。

 そして、IBBY会員の皆様、またこの賞の選考にご尽力された皆様、私の愛する編集者たち、そして、何よりも私の本を読んでくださった沢山の読者に、心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。

 さて、ここで私の思い出の「オノマトペ」をひとつ声に出して言ってみようと思います。それはこんなものです。

 どんぶらこっこーう すっこっこーう

 どんぶらこっこーう すっこっこーう

 みなさん、この音を聞いて、どんな情景を思い浮かべましたか。

 一人一人お答えをお伺いしたいところですが、時間がかかりますので、私がお答えいたしましょう。これは日本の昔話の冒頭に出てくる言葉です。5歳で母を亡くして泣き虫だった私を、父は膝の中に座らせて、体を揺らしながら、このようにお話を語り始めました。

 川上から大きな桃が、「どんぶらこっこーう すっこっこーう」って流れてきました。この桃を、川で洗濯していたおばあさんがすくいあげ、家に持ち帰り、食べようとすると、中から男の赤ちゃんが「オギャーオギャー」と泣きながら生まれてきたのです。

 この桃太郎という昔話は、日本人であれば、誰でも知っているお話です。この桃が川を流れてくるときのオノマトペは語る人によってさまざまです。私の父はいつも、「どんぶらこっこーう すっこっこーう」と歌うように言いました。今でも、私のこの耳のあたりに聞こえています。とっても懐かしい言葉です。

 日本の家は、玄関や窓などの開口部が大きくできています。引き戸になっていて、朝起きて全部開けると、家の中と外の世界は一体になります。家の中も、部屋の仕切りの障子やふすまをあければ、他の部屋や廊下とつながるように作られています。現在は多少変わってしまいましたが。

 ですから私の国では、鳥の鳴き声、風や雨の音、生活の音などが、常に人々の暮らしの中にあり、音を聞いて想像力を働かせ情報を得ていました。こういった中で、オノマトペも自然にたくさん生まれてきたのです。

 オノマトペには窮屈なルールはなくて、感じたままの気持ちを許してくれます。とっても自由なものです。一つのオノマトペが、その語感、リズム、音の響きから、どれほど多くのことを伝えてくれることでしょうか。きっと、西洋文明の源を作ったこのギリシャにも、またここにいらっしゃる皆様のそれぞれのお国にも、楽しいオノマトペがあるのでしょう。

 子どもの時、父はオノマトペや独自の表現を生み出して、子どもたちに語る物語をいっそう楽しいものにしてくれました。私は、それらの言葉に誘われて、物語に入り込み、元気な子どもになったり、主人公と一緒に問題を解決しようとしたり、さまざまな世界へと想像を巡らしました。私の物語との出会いは、ここから出発したのです。

 今でも仕事がうまくいかないで、書く手が止まってしまったとき、無意識に「どんぶらこっこーう すっこっこーう」と口にしていることがあります。すると、小さい時のわくわくした気持ちがよみがえって、原稿を書き進めることができたことが何度もありました。これは私のおまじないの言葉だと思っています。こんな時、父へ向けて、またこのような豊かな言葉を持っている日本語に、「ありがとう」と言いたくなります。

 こうして、父のおかげで、私は、物語が大好きな子ども、そして、本を読むのが大好きな子どもになりました。それ以来30年以上、私はとっても熱心な「読む人」でした。「書く人」になるなんて、考えたこともありませんでした。

国際アンデルセン賞の授賞式でスピーチする角野栄子さん=8月31日、アテネ(共同)

 ところが、34歳のある日、大学時代の先生から電話があり、「君はブラジルで2年暮らしてきたのだから、ブラジルの子どもについて、ノンフィクションを書いてみないか」と言われたのです。

 私は大変驚き、とても無理だと思いました。すぐさま「できません」と答えました。でも先生は「書きなさい」と言うのです。その時ふっと、ブラジルで仲良くなった少年、ルイジンニョのことなら書けるかな、と思ったのです。私は仕方なく書き始めました。本当に仕方なく書き始めたんです。恩師はいくつになっても、尊敬すべき存在ですから。

 ブラジルで暮らした2年の間、同じアパートに住む12歳の魅力的な男の子、ルイジンニョと仲良くなり、ポルトガル語を教えてもらいました。12歳の先生と24歳の生徒です。彼に言葉を教えてもらいながら、町を歩いた毎日は、発見の連続でした。

 ルイジンニョのお母さんはサンバの歌手で、彼は生まれたときから、サンバの音楽を聴いて育ったのです。私に教えるときも、歌うように、踊るように、言葉を教えてくれました。よく分からない言葉なのに、このような心地よいリズムに乗せて語られると、不思議なことに意味が伝わってくるのでした。

 彼はブラジルの少年らしく、踊るのもとっても上手で、一緒に踊れと私を誘うのです。でも日本で育った私は、そういう習慣もなく恥ずかしくて踊れません、すると、彼はこう言ったのです。

 「エイコ、あんたにもコラソン、心臓があるでしょ、とくとく とくとくと動いているでしょ。それを聞きながら踊れば、踊れるよ。だって、人間はそんなふうにできているのだから」

 12歳の少年のこの言葉に、私ははっとしました。そして、小さいとき、私の父がお話を語ってくれたときの、弾むような言葉を思い出しました。父の物語を聞いていた時、確かに私の胸は、とくとくとくと動いていました。

 言葉って、少ししか知らなくても、ぴったりのリズムや響きがあれば、不思議なほど相手に伝わる、また忘れられないものになる。それまで言葉の意味ばかり追いかけていた私に、ルイジンニョは、言葉の持つ不思議と奥深さを気づかせてくれたのです。

 このような思い出にも後押しされて、私は、「ルイジンニョ少年」のことを書き始めました。すると、ブラジルでの暮らしがとても楽しいものだったので、驚いたことに、またたくまに300枚も書いてしまったのです。日本では原稿用紙1枚が400字です。ところが出版社の編集者に見せたところ、規定の枚数は、70枚だというのです。

 もうだめ、と思いました。あんなに楽しく書いたのだから、書き直すことなどできない、と思いました。すると、親切な編集者は、「もう少し読者に伝わるように書き直してみませんか」と言うではありませんか。

 そこで初めて「えっ、読者?」って思いました。うかつにもそれまで、私の書いたものを読む読者ができるなんて、考えてもいなかったのです。驚きました。これは大変なことだと思いました。3歳のときからずっと、私は本を読む人、読者だったのに、私に読者ができるなんて、その時まで気がつかなかったのです。

 考えの足りない、あきれた34歳です。「あれ、どうしよう。大変なことだ」私は慌てました。それで、「無理です。300枚を70枚に縮めるなんて、とてもできません。他の人に書いてもらってください」と編集者に言いました。

 すると、辛抱強い編集者は、「ちょっといいところもありますから、書き直してみませんか」というのです。私は、「ほんと?ちょっといいところがあるのですか。本当に?」

 それなら書き直してみようかな、とすぐに思いました。おだてに乗りやすいのです。いつの世もちょっとした褒め言葉は大切ですね。

 それから書き直しが始まりました。その回数は、十数回。いつも、はじめから書き直しました。毎日、毎日、書きました。そしてやっと、70枚にまとめることに成功しました。数カ月はかかったと思います。遠い昔のことなのではっきりした日数は忘れてしまいましたが。

 そして、書き直しをしているあいだに、はっと気がついたのです。今まで何をしても飽きっぽかった私が、毎日繰り返し書いても、飽きない。これは一体、どういうことなんだろう。私にとっても大変な驚きでした。

 こういうことを、日本では「青天のへきれき」と言います。このとき私は、一生書いていこう、と決意しました。これこそが自分が好きなことだと気づいたのです。だれに褒められなくても出版されなくてもいいから、一人で書いていこう。父から聞いた、あの歌うような言葉で、楽しい物語を書いていこう。

 そうしたら、毎日を、生き生きと生きていくことができる。そう心に決めたら、生きることが一層楽しく思えるようになりました。

 そして、次に取り組んだのは、ノンフィクションではなく物語でした。毎日、毎日書き続けました。ブラジルの少年が教えてくれた、弾むような言葉の響き、踊るようなリズム、父が語ってくれた身体にしみこむように入っていく、あたたかい言葉で、私も書きたいと思いながら書き続けました。

 そして私の2冊目の本が出版されたのは、それから7年後でした。私は読む人から、書く人になったのでした。その時、42歳になっていました。

 私に残された時間はそんなにもうないと思いますが、これからも毎日物語を書き続けるつもりです。冒頭で申し上げましたように、5歳で母を亡くした私は、あの過酷な戦争の中で、物語にとてもとても慰められました。安心を与えてもらいました。あの厳しい時代を生きていく力を与えてもらったと思います。

 私は、こう考えています。

 物語は、私が書いたものであっても、読んだ瞬間から、読んだ人の物語になっていく。読んだ人一人一人の物語になって生き続ける。そこが物語の素晴らしいところだと思います。

 そして、その時、感銘を受けた言葉、その時の空気、その時の気持ち、想像力などが、一緒になって、その人の体のなかに重なるように入っていき、それが、その人の言葉の辞書になっていく。

 その辞書から、人が与えられた大きな力、想像力が生まれ、そして創造する力のもとになっていくと思っています。それはその人の世界を広げ、つらいときにも励まし助けてくれるでしょう。

 ルイジンニョが言ったように、同じ鼓動を持つ人間同士です。今は難しい時代であるけれども、地域を越えて、物語には大きな力があると信じています。そう信じて、これからも書き続けていこうと思っています。

 世界中の皆様、これからも私の物語を読んでください。再び、「ありがとう」を申し上げて、私の話を終わらせていただきます。

 エフハリスト(ギリシャ語でありがとう)。ありがとうございました。

アテネで開かれた国際アンデルセン賞の授賞式でメダルを掲げてみせる角野栄子さん=8月31日(共同)