“幕張の安打製造機”を生んだ恩師との二人三脚 ロッテ福浦の体に息づく日々

ロッテ・福浦和也【写真提供:千葉ロッテマリーンズ】

1993安打目はプロ初安打と同じ中前に

 幕張の安打製造機の1993安打目も中前打だった。9月5日、ZOZOマリンスタジアムでのホークス戦。1打席目は前回対戦で1992安打目となる中前打を記録した先発・松本裕の前に凡退。しかし、2番手・中田との対戦で捉えた。

 1球目。インコースへの140キロのストレートを見送る。胸元を突くギリギリ一杯の球も長年培った選球眼は冷静だった。ピクリともしない。2球目、146キロストレート。ほぼ同じゾーン。ただ球1つ分ストライクゾーンに入ってきた。ボールの真下を叩く。中前に飛んだ打球は3回、4回と人工芝の上で跳ね、中堅・柳田のグラブに収まる。ビジョンで偉業達成まで一歩近づいたことを知らせる数字が表れるとスタンドは大きな歓声に包まれる。場内に設置された「FUKUメーター」も誇らしげに更新された。

「ストレート狙いだった。1球目がボールになったので2球目はストライクをとりにくると思って狙っていた。詰まっていたけど、ヒットになってくれてよかったよ」

 一塁ベースを少しまわったところで打球の行方を確認すると、右手を少しだけ掲げ、ファンの声援に応えた。思えば初ヒットも本拠地での中前打だった。その時のことは今でも鮮明に覚えている。

早朝の旅立ちを見送ってくれた山本2軍監督

 4年目の97年7月4日の夜。秋田遠征中の宿舎で山本功児2軍監督から「明日から1軍だ」と告げられた。急な招集に驚いた。夜も寝られないほど緊張した。いったんは布団に入ったが、ダメだった。だからバットを握った。2人部屋だったため、部屋の明かりはつけずに真っ暗の中、バットを振り続けた。打撃のポイントを確認し、深夜にようやく眠りについた。翌5日、マリンのデーゲームに間に合わせるため、早朝に身支度を行いロビーに向うと、山本2軍監督が立っていた。監督がこんなに早い時間にわざわざ見送りのため起きて待ってくれていたことに驚いた。その気持ちが身に染みた。活躍を誓い空港へ向かった。

 羽田からタクシーに飛び乗り、マリンに到着したのはチームの全体練習が終わる寸前。バタバタと練習を済ませるとこの日のオリックス戦、7番一塁でスタメン出場を言い渡された。4回にブルーウェーブ先発のフレーザーのインコーススライダーに詰まった当たりはポトリとセンター前に落ちた。記念すべき1軍でのプロ初ヒットだった。2000本安打を目前に控える男の伝説はここから始まった。

 あれから月日は流れた。当時、2軍監督を務めた山本氏は2016年4月23日、64歳で永眠した。初の1軍へと出発した日、宿舎ロビーで待っていた山本2軍監督に「頑張ってこいよ」と力強く肩を叩かれ、若者はタクシーに乗った。山本監督はタクシーが見えなくなるまで手を振り、見送ってくれた。初の1軍に、ほとんど寝ることもできずに出発した福浦和也内野手は、あの日から時と年齢を重ね、1993本のヒットを積み重ねた。「オレの野球人生の最後まで見届けてほしかった。寂しいよね。天国で見守ってほしい」。山本氏の死去を聞かされた時、福浦はそう言って悲しんだ。

 大ベテランは42歳になった今も精力的に体を動かし、バットを数多く振る。その打撃は2軍時代に山本氏と二人三脚で特打を繰り返した時の練習が土台となっている。2000本安打まであと7安打。恩師や支えてくれた人たちのことを想い、福浦はバットを握る。偉業達成を最高の恩返しとする。(マリーンズ球団広報 梶原紀章)

(記事提供:パ・リーグ インサイト)

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