カネミ油症50年の証言 被爆との二重苦、人生翻弄 「患者は見捨てられた」 仮払金の返還迫られ困窮

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 長崎原爆とカネミ油症。長崎県五島市玉之浦町の中里益太郎(88)は、人間が引き起こした二つの惨禍に人生を翻弄(ほんろう)されてきた。「いったい何のために、あんなものを地球上につくらないといかんのか」-。今なお胸中には怒りが渦巻いている。

 戦時中、玉之浦第一国民学校を卒業した中里は1945(昭和20)年、長崎市上野町の旧県立長崎工業学校に通っていた。15歳で3年生。夜間は学徒動員で路面電車の修理作業に駆り出される日々。8月9日は前夜の作業に疲れ果て、朝から船蔵町(当時)にある3階建ての寮の1階で寝ていた。

 まぶたの向こうに青白い閃光(せんこう)が走った。爆心地から1・6キロ。爆風で寮は崩れ落ちた。夢中で抜け出したが、体に無数のガラス片が刺さり、左目には深い傷。寮は炎に包まれた。はだしで街を走り、蛍茶屋にあった電車の修理工場に逃げ込んだ。

 左目の手当てを受けたが、視力は結局戻らなかった。学校も壊滅したため、市内の造船所で働く兄と五島行きの運搬船に乗った。数日後、たどり着いた玉之浦の自宅で玉音放送を聞いた。

 1、2年して長崎市に戻り、底引き漁の船に乗った。生活は平穏を取り戻したが、体には原爆の爪痕が残った。10代と20代の時、義眼を付けたり体内のガラス片を除いたりする手術を受けた。30代で結婚。長男長女に恵まれた。父親が亡くなったのを機に漁を辞め、家族と五島に帰郷、再出発となった。被爆して約20年がたっていた。

 68年、中里は玉之浦町の漁協で働いていた。次女が前年に生まれ、同居家族は母を含め6人に増えていた。そのころ、中里の体には新たな異変が起きていた。背中や太ももなどに吹き出物が出て、目やにが止めどなくあふれた。「右目まで失明するのでは」。不安が襲った。

 1968(昭和43)年。五島市玉之浦町の漁協で働く中里益太郎(88)=当時(38)=は、体の異変に苦しんでいた。子どもたちにも吹き出物ができ、小学生だった長女はひどい頭痛のため、よく保健室で休んだ。近くの診療所でも原因は分からず、かゆみ止めの薬をもらう程度だった。

 集落では、どの家庭も移動販売車で食料品を購入。安い食用米ぬか油も売られ、中里家は一升瓶単位で買っていた。毎日のように使うその食用油に有害化学物質が混じっていることなど、知るはずもなかった。

 ■発 覚

 同年秋、中里はテレビ画面に目がくぎ付けになった。映し出された人々の皮膚には大量の吹き出物が現れていた。「自分たちと同じだ」。新聞報道を端緒に発覚したカネミ油症を伝えるニュース映像だった。

 やがて玉之浦でも集団検診が始まった。中里と妻、長女、長男は初回で認定。次女も数回受診し認定されたが、同居の母だけ認定されなかった。

 中里は40歳の時、国や汚染油を製造販売したカネミ倉庫、原因物質ポリ塩化ビフェニール(PCB)を製造した鐘淵化学工業(現カネカ)の責任を問う集団訴訟の1陣に、未認定の母を除く家族4人と加わった。

 78年の一審判決は、カネミ倉庫とカネカの賠償責任を認め、84年の二審で国の責任も認められた。中里ら5人は、国から仮払金を受け取った。だが86年、2陣の二審判決は国とカネカの責任を否定。他の裁判でも最高裁で敗訴する可能性が高まり、1陣など全原告団が訴訟を取り下げた。

 ■理不尽

 10年後、中里は突如、国から仮払金を返すよう迫られた。返還額は家族5人で1千万円を超えたが、既に手元にはなかった。当時、台風でいけすが壊れるなどの被害を受け、漁協組合長として、生活に困っていた組合員たちに生活費などとして仮払金の多くを貸してしまっていたからだ。

 返せなければ家などを差し押さえられる-。うわさが集落に広がった。返済するため別に借金をした人もいた。「何も知らず油を買って食べただけなのに、あまりに理不尽だ」。分割返済のために切り詰めた生活は、2007年の返還免除特例法の成立まで続いた。

 中里は、油症患者に対する医療費補償に不満を抱く。医療費が原則無料になる被爆者健康手帳に対し、カネミ倉庫が配る油症患者受療券は一部の病院でしか使えず、県外の病院には油症を知らない医師が多い。

 ■不 安

 被害者団体幹部そして玉之浦町議として国やカネミ倉庫を訪ねて回り、支援拡充などを求めた。同行した患者の中には体調を崩す人も少なくなかった。だが国や同社の担当者は「検討します」と言うばかり。「油症患者は見捨てられた」。その思いは今も消えない。

 被爆73年、油症発覚から50年。苦難の道を歩んできた。「何も知らない無実の人たちが、苦しみ続けたという点で原爆と油症は同じ」。いずれも子や孫の影響への不安は消えない。「弱い者だけが苦しむような世の中であってはならない」。二つの惨禍を生きた中里の思いだ。

油症患者受療券(右)と被爆者健康手帳を前に、記憶をたどる中里さん=長崎県五島市玉之浦町
被害者団体幹部であり玉之浦町議でもあった中里さんは、陳情のため国や原因企業に頻繁に足を運んだ