豊饒の湖水~琵琶湖畔の歴史と芸術に魅せられて~ 日本一の水資源、歴史文化の宝庫、だが水害も多発

琵琶湖遠景(後方は比叡山)

7年ほど前のことである。私は琵琶湖総合開発をテーマにしたノンフィクションの月刊誌連載にそなえて、同湖畔を時間の許す限り跋渉(ばっしょう)した。この時、日本最大の湖・琵琶湖が河川法上は「一級河川」であることを知った。東西南北の湖畔を訪ね、光り輝く湖面の向うになびくたおやかな山々を見つめるたびに、私は感動に包まれた。「水と光の織りなす交響詩」の感銘を深くすることがたびたびであった。私は琵琶湖を舞台にした歴史書や文学書はもとより、琵琶湖の生態系や水質などを主題にした図書や学術論文にも目を通した。資料を精読し、かつ名所旧跡を歩きまわり、湖畔近くに立つ神社仏閣にたたずむうちに、私は琵琶湖の尽きない魅力に取りつかれて行った。

宗教芸術の端正さと質朴さ

平成24年(2012)秋、東京・日本橋の三井記念美術館で「<特別展>琵琶湖をめぐる近江路の神と仏 名宝展」(主催:滋賀県、滋賀県立琵琶湖文化館、朝日新聞など)が開催された。<琵琶湖ファン>である私は心を高鳴らせて美術館に足を運んだ。出品されたのは延暦寺、園城寺(おんじょうじ)、石山寺など42の古社寺からの国宝・重文62点を含む秘仏、名宝、仏画、経典約100点である。初公開の仏像や神像も少なくない。歴史の時空を超えて琵琶湖畔の信仰を支えてきた秘仏の端正さと質朴さに改めて心をうたれた。会場に掲げられた滋賀県知事の「ごあいさつ」の一部を引用したい。

「近江は、琵琶湖をその中心に抱える豊かな地域で、古代の都である奈良、京都に近接し、古くから文化・経済の先進地でした。琵琶湖のほとりに聳(そび)える比叡山は、天台宗を伝えた最澄が開いて以来、わが国の仏教文化の中心であり、ここから円珍、法然、親鸞、日蓮、真盛など多くの宗派の開祖たちが巣だっています。近江の人びとは、時代時代の新たな潮流を積極的に受容し、古いものを淘汰するのではなく、うまく融合させて現代に伝えています。これは、今なお<志賀の地>に、各時代の、各宗派の仏教美術が豊かに残る所以であります(以下略)」。特に感銘を深くしたのは、不動明王像(延暦寺、重文、平安時代)、薬師寺如来坐像(西教寺、重文、鎌倉時代)、千手観音立像(葛川明王院、重文、平安時代)、大日如来坐像(石山寺、重文、快慶作、鎌倉時代)、地蔵菩薩立像(長命寺、重文、鎌倉時代)などで、いずれも絶品といえる。
                  ◇
琵琶湖畔の宗教芸術を理解する上で最高傑作の評論のひとつは白洲正子氏の『近江山河抄』(白洲正子全集第6巻)である。同書は、紀行文の傑作であるのみならず著者の秀でた知性や鋭い美意識に裏打ちされた思索の書である。どのページを開いても、著者の歴史観・宗教観に触れることができる。著者の観察眼の鋭さによって表現された文章の一部を引用したい。

「<沖つ島山>
近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺(ちょうめいじ)のあたりと答えるであろう。はじめて行ったのは、巡礼の取材に廻っていた時で、地図をたよりに一人で歩いていた。近江八幡のはずれに日牟礼(ひむれ)八幡宮が建っている。その山の麓を東に廻って行くと、やがて葦が一面に生えた入江が現われる。歌枕で有名な『津田の細江』で、その向うに長命寺につらなる山並みが見渡され、葦の間に白鷺が群れている景色は、桃山時代の障壁画を見るように美しい。最近は干拓がすすんで、当時の趣はいく分失われたが、それでも水郷の気分は残っており、近江だけでなく、日本の中でもこんなにきめの細かい景色は珍しい。京都の簾屋(すだれや)はここの葭(よし)で簾やよしずを作っている。(中略)。その後、何度か訪れる中に、私は少しずつこの周辺のことを知って行った。長命寺の裏山を長命寺山とも金亀山とも呼ぶが、それに隣り合って、あきらかに神体山とおぼしき峰が続いており、それらの総称を『奥島山(おきつしまやま)』という。現在は半島のような形で湖水の中につき出ているが、まわりが干拓されるまでは、文字どおり奥島山であった。山頂へ登ってみると、湖水をへだてて、水茎の岡の向うに三上山がそびえ、こういう所に弥勒(みろく)や観音を想像したのは当然のことといえよう」

「近江の中でも、一番空が広いのはここかも知れない。そんなことを考えながら、安土の方を眺めていると、なぜ信長があんな所に城を築いたか、うなずけるような気がして来る。湖水からつづく津田の細江は、そのまま安土城の堀へ直結し、交通に便利であっただけでなく、天然の要害をなしていただろう。観音寺山を背景に、ただでさえ広い蒲生野の一角にそびえる天守閣からは、殆ど近江全体が見渡され、三方水にかこまれた白亜の建築は、竜宮城のように美しく、あたりを圧して君臨していたに違いない。こういう所を発見しただけでも、信長の天才がうかがえるが、安土を選んだのは他にも理由があったと思う」(原文のママ)。思索的名文とはかかる文章をいう。

秋の石山寺

<文学に表現された湖水(1)、和歌>

琵琶湖は、古来日本独自の言語芸術である俳句や短歌に詠われて来た。
さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな
(平薩摩守忠教(たいらのさつまのかみただのり、通常は忠度)、「平家物語」の「忠教都落(みやこおち)」)
淡海(おうみ)の海(うみ) 夕波千鳥(ゆうなみちどり) 汝(な)が鳴けば情(こころ)もしぬに 古(いにしえ)思ほゆ(柿本人麻呂 「万葉集」巻三)

琵琶湖を詠った和歌2首である。代表的歌人による最高の名歌である。ここでは忠教の和歌をとりあげる。木曽義仲ら源氏の追撃により、都落ちを決意した忠教は、歌壇の最高権威である藤原俊成(しゅんぜい)を密かに訪ねて別れを告げ、遺作となる巻物(和歌集)を手渡す。『平家物語』の「忠教都落」から一部引用する。(原文のママ)

「三位(さんみ、俊成をさす)是をあけて見て『かかる忘れがたみを給(たまわり)おき候ぬる上は、ゆめゆめ粗略を存ずまじう候。御疑(うたがい)あるべからず。さても唯今の御わたりこそ、情(なさけ)もすぐれてふかう、哀(あわれ)もことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ』と給へば、薩摩守悦んで、『今は西海(さいかい)の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばされせ。浮世に思いおく事候はず。さらばいとま申て』とて、馬にいち乗り、甲(かぶと)の緒をしめ、西にさいてぞあゆませ給ふ。三位うしろを遥に見おくって、たたれたれば、忠教の声とおぼしくて、『前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳(ルビはす)』とたからかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残をしうおぼえて、涙をおさへてそ入給ふ。
其後(そののち)、世しづまって、千載集(せんざいしゅう)を撰ぜられけるに、忠教のありしあり様、言ひおきしことの葉、今更(いまさら)思ひ出でて哀也ければ、彼(かの)巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれ共、勅勘(ちょっかん)の人(天子から咎めを受けた人)なれば、名字をばあらはされず、故郷花という題にてよまれたりける歌一首ぞ、「読人知らず」と入られける。
さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな
(意訳:さざ波が打ち寄せる志賀の都は荒れ果ててしまったが、長等山の桜だけは昔ながらに美しい花を咲かせていることよ)
其身(そのみ)、朝敵となりし上は、子細(しさい)に及ばずと言ひながら、うらめしかりし事ども也」。忠教は一ノ谷の戦で戦死する。
                 ◇
江戸初期、諸国を漫遊する水戸藩黄門・水戸光圀は琵琶湖に立ち寄って詠った。
音ばかり よするや鳰(にお)の 浦波も 霞にこもる あけぼのの空
「常山詠草」所収。琵琶湖のことを歌語で「鳰のうみ」といった。これは「湖上霞」という題詠。湖水の浦波も、のどかな春霞の中にこもってかすみ、静かな音だけが寄せている岸辺。優雅な王朝和歌の流れをくみ、調べはあくまでもおおらかである。(大岡信『新折々のうたI』参考)。

現代歌人・河野裕子は詠う。
たっぷりと 真水を抱きて しづもれる 昏(くら)き器を 近江と言えり

<文学に表現された湖水(2)、俳句>

琵琶湖を詠った俳人といえば、まず第一に俳聖松尾芭蕉をあげるのが礼儀であろう。「芭蕉句集」(日本古典文学大系、岩波書店)は、俳人松尾芭蕉(1644~94)の俳句約1000句を春夏秋冬の季語に分けて紹介し解説している。江戸期を代表する俳聖は近江国と琵琶湖をこよなく愛し、その亡骸(なきがら)を琵琶湖畔からわずかに内陸に入った義仲寺(ぎちゅうじ、現大津市馬場)に葬るよう遺言した(句の解釈は紙面の制限上でできないことをお断りしておく)。

<春>
大津絵の筆のはじめは何仏(なにほとけ)(元禄4年正月大津での吟)
行春を近江の人とおしみけり(元禄3年志賀辛崎での吟)
辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて(貞享2年大津での吟)
命二つの中に生たる櫻哉(かな)(貞享2年甲賀郡水口での吟)
四方より花吹入れてにほの波(元禄3年近江膳所での吟、「にほ」は水鳥の鳰・にお)
<夏>
海ははれてひえふりのこす五月哉(元禄元年琵琶湖畔での吟)
五月雨に鳰の浮巣を見に行かむ(貞享4年琵琶湖畔での吟)
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋(元禄元年瀬田での吟)
此の宿は水鶏(くいな)もしらぬ扉(とぼそ)かな(年次不詳大津での吟)
ほたる見や船頭酔ておぼつかな(元禄3年瀬田での吟)
世の夏や湖水にうかぶ波の上(元禄元年琵琶湖上での吟)
<秋>
石山のいしより白し秋のかぜ(元禄2年現石川県の山中での吟)
名月や海にむかへば七小町(元禄3年琵琶湖畔での吟)
名月はふたつ過ぎても瀬田の月(元禄4年瀬田での吟)
三井寺の門たたかばやけふの月(元禄4年義仲寺での吟)
鎖(じょう)あけて月さしいれよ浮み堂(元禄4年浮御堂での吟)
病む雁の夜さむに落て旅ね哉(元禄3年堅田での吟)
海士(あま)の屋は小海老(こえび)にまじるいとど哉(元禄3年堅田での吟)
<冬>
かくれけり師走の海のかいつぶり(元禄3年草津での吟)
少将のあまのはなしやしがの雪(元禄2年大津での吟)
比良みかみ雪指しわたせ鷺(さぎ)の橋(元禄3年大津での吟)
あられせば網代(あじろ)の氷魚(ひお)を煮て出さん(元禄2年膳所での吟)
石山の石にたばしるあられ哉(元禄2年か3年石山寺での吟)
百年(ももとせ)の気色(けしき)を庭の落葉哉(元禄4年彦根・明照寺での吟)
たふとがる涙やそめて散紅葉(ちるもみじ)(同前)  
                 ◇    
近現代俳諧の指導者・正岡子規(1867~1902)は学生時代に琵琶湖を題材にした漢詩と俳句を詠っている。1890年(明治23年)8月29日、第一高等中学(現東大教養学部)学生・正岡子規(23歳)は同級生の友人夏目漱石(金之助)へ手紙を送った。

「(前略)小生飄然(ひょうぜん)と琵琶湖畔に天下り石山寺に参籠し幻住庵の跡に錫(しゃく)をとどむるなど大分俗骨を感じたるの感あり。
次瑶韻(じよういん)
琶湖携筆避紅塵 山紫水明憶美人 一夜天風吹我去 白雲皎月遇詩神
(琶湖筆を携えて紅塵を避け 山紫水明美人を憶う 一夜天風我を吹いて去り 白雲皎月詩神に遇う。<大意>筆を手に俗界を離れて琵琶湖に遊んだ。水と山の澄み切った風景は、心に美しい人を思い浮かばせる。ある夜のこと、天の風が僕を運び、白く輝く雲と月明かりの中で詩の神に出会わせてくれた)。
(中略)
月見がてら辛崎(からさき)へ行きたり。往復に得たる句の内、
くだけては 海一面の 月の影
むすぶ手に ひやりとしむる 水の月
名月や 湖水の中に 舟一つ」(「漱石・子規、往復書簡集」岩波文庫より)。

義仲寺(芭蕉墓地がある)

<文学に表現された湖水(3)、小説>

琵琶湖畔を舞台にしたり借景に活用したりしている近現代小説はゆうに30冊を数える。

舟橋聖一「花の生涯」は、幕末の悲劇の大老・井伊直弼(なおすけ)の生涯を描いた浩瀚(こうかん)な歴史小説である。万延元年(1860)3月3日、大老直弼が暗殺(桜田門外の変)される節句(雛祭り)の日の描写が忘れがたい。大雪となった早朝、登城前の大老の姿はしんしんと降る雪のように心にしみわたる。「水戸浪士が命を狙っている」。直弼の元には情報が相次いでもたらされている。暗殺による横死(おうし)をも覚悟した45歳の大老の心境は清澄であった。青年時代まで過ごした郷里彦根の城から眺めた春の琵琶の湖(うみ)がまぶたに浮かぶ。

三島由紀夫「絹と明察」は、「戦後版女工哀史」として喧伝された近江絹糸(おうみけんし、彦根市)の労働争議に題材をとっている。近江絹糸は第二次世界大戦後、急速に成長した紡績資本で、発展の基礎は労働基準法や人権を無視した劣悪な労働条件と旧態依然の労務管理にあった。そこに全繊同盟指導の新組合が生れ、昭和29年(1954)6月4日、労働者は、宗教行事強制反対、信書開封・私物検査廃止、結婚・外出の自由など22の要求を掲げて無期限ストに入った。会社側は強硬な姿勢をくずさなかったが、9月16日、財界の調停と中労委の斡旋案により106日に及ぶ争議は終わった。三島の作品群の中では労働争議をとりあつかったユニークな中編小説であるが、流血の惨事など労使間の対決のみを描いた作品ではない。

経営者を「父親」、従業員を「子ども」ととらえる前近代的経営センスの社長の悲喜劇や愛欲さらには会社を手玉に取るブローカーの暗躍を描いて余すところがない。琵琶湖の光景や湖畔の名所旧跡の四季折々の風情が労働争議という暗い物語の中に明るさを点描している。ストライキ突入を決意した組合リーダーの青年大槻の心境を、琵琶湖畔の高峻な山々に託している。

「或る日、大槻は琵琶湖畔に立って、湖の対岸の山々を眺めた。岳山は蛇谷ヶ岳(じゃやがたけ)と重なり、蛇谷ヶ岳は南のかなた武奈ヶ岳に連なって、けだかい比良の峯々の霞立つ山尾へつづいていた。山々の高低と濃淡が、見つめるほどに、彼の心の高低と濃淡をはっきりと示し、それが直に青空に接していることが、自分に対するのびやかな寛容を教えた。
湖上を渡ってきて、彼のはだけたシャツの胸にまともに吹きつける五月の風、これを弘子(大槻の恋人)の蝕(むしば)まれた胸へ贈ろう。この紫の幔幕のような祝典的な風は、たちどころに彼女の胸を癒すだろう。スパイを前にして彼の考えた(駒沢)社長への感謝と激励の文面を思い出そう。あの言葉一つ一つにこもる偽善は、この5月の風のように明快ですばらしく、もしそれを書き送れば、社長は涙を流して読むだろう。大槻は自分の一挙手一投足が、かつては解きがたくもつれて腐りかけていた事物の、すべてを癒すように感じた。自分の手はあの山々の麓の若葉の、風にまつわる青くさい匂いをも癒すだろう。彼は深夜業の苦痛を癒すと共に、頭上にひろがるこの救いがたい青空をも癒すだろう。船着きの外れにひろがる葭(よし)のあいだで、葦切(よしきり)が小まめに囀(さえず)っている。…」

次いで、大槻と新妻弘子(組合員)との新婚旅行のスケッチである。

「あくる日快晴の午後を、二人(大槻と弘子)は石山寺の見物にゆっくりとすごした。石山寺は1200年の昔、良弁僧正の開基になる名刹(めいさつ)で、その本堂には、結縁、安産、福徳の霊験あらかたな秘仏を祭り、数知れず供えられた安産御礼の供米を若い夫婦は言いがたい思いで眺めた。(中略)。弘子がここで永い感慨に沈まずに、紫式部の源氏の間を、早く見に行こうと言い出したので、大槻は心が明るくなって、そのほうへ廊下をいそいだ。そのくせ大槻は、紫式部などには何の興味もなかった。

しかし、源氏物語が書かれたという伝説のその部屋は、廊下より一段低い陰気な小部屋で、明りを取るには華頭窓(かとうまど)がひとつあるきりである。こんな労働条件のひどさに弘子はがっかりして、「よくこんな暗い部屋で小説が書けたもんだは」と呟(つぶや)いた。

それがいかにも座敷牢を思わせるところから、もし伝説が真実で、ここであの長い物語が書かれたことが本当なら、紫式部は狂気だったのでないかと大槻は想像した。…」。 

石山寺の紫式部の部屋を見て、私も「座敷牢」を連想した。

謝辞:季刊誌「河川文化」投稿の拙文をリライトした上で掲載した。あらためて「河川文化」に感謝したい。

(つづく)

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