金属行人(9月10日付)

 昭和16年12月8日未明。真珠湾攻撃。向かうところ敵なしのムードできた日本軍。だが、その時すでに日本の敗戦を見通していた人がいた。当時、八幡製鉄所長だった渋沢正雄さんだ▼開戦の2週間後。九州大学から名古屋大学の内科医だった森泰樹さんに電話が入った。「渋沢さんを治療してもらえないか」と。肝臓がん。すぐに渋沢所長は福岡から名古屋へ転院した▼森さんが懸命に治療していたある日、渋沢所長が切り出した。「この戦争は負けます」。森先生は不思議そうに問い返す。「この戦果赫々(かくかく)の時にどういうことですか」。すると渋沢所長は整然と話しだした▼「それは鉄の量です。米国はルーズベルト時代、日本の製鉄業の発展を阻もうと自国の鉄スクラップを半額以下で日本に売ってきた。日本は気をよくして、その再製に専念した。製鉄所内にはそのスクラップが積まれているが、本当はその量は少ない。すぐ下は雑草ですよ」▼渋沢所長は「海南島の磁鉄鉱を持ってきても、八幡の溶鉱炉では鉄にできない。鉄が不足し負けますね」と続け、再び治療に専念した。この話、森さんのエッセイ『朝夕妄語』にある▼時代を経て、戦いが「経済」になっても「日本鉄鋼業」の大切さは少しも変わらない。

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