試合前のアクシデントに泣いた好素材 西鉄全盛期を支えた故・田辺義三氏

田辺義三氏のこれまでの成績

春の選抜準優勝、大型捕手として鳴り物入りで西鉄入団

 9月12日、西鉄ライオンズの全盛期に控え選手としてチームに貢献した田辺義三氏が死去した。81歳だった。

 田辺氏は1937年4月12日生まれ。長嶋茂雄、野村克也より2学年下。群馬県立桐生高校時代に春の甲子園に捕手として出場、準優勝を果たす。

 身長174センチは当時としては大型で、高校屈指の強打の捕手として中日、大映、東映、大洋などが獲得合戦を繰り広げたが、1956年に西鉄ライオンズへ入団。小倉高校時代に甲子園で準優勝投手となり、これも争奪戦の末に入団した畑隆幸とともに「黄金のバッテリー誕生」と騒がれた。

 のちの大投手、稲尾和久も別府緑丘高を出てこの年に入団したが、この時は全くの無名だった。

 当時の西鉄には、戦前からマスクをかぶる日比野武という捕手がいたが、後釜を田辺と久保山誠、和田博美の3人の若手捕手が争っていた。

 高校屈指の名捕手で肩もいい田辺は後継一番手と目されたが、翌年キャンプで三原脩監督が総合的な守備力を判断し、和田を正捕手に抜擢した。

 田辺は控え捕手に甘んじたが、59年に中日から河合保彦が加入したため、外野手にコンバートされた。

 さらに1962年には一塁手にコンバートされ、この年、キャリア最多の94試合に出場する。この年からプレイングマネージャーになった中西太は、守備が良く、打撃センスもいい田辺を正一塁手に固定するつもりだった。

25歳で不慮の事故…豊田、中西ら当時のメンバーと引退後も続いた交流

 しかし、1962年10月6日、東京スタジアムの大毎オリオンズ戦の試合前、当時打撃投手としてチームに同行していた安部和春に代わって打撃投手を買って出た田辺は、同僚の伊藤光四郎の打球を後頭部に受けて昏倒し、病院に運ばれた。幸いにして意識は戻ったが、意識障害が残り、2年間治療に専念。1964年に1軍に復帰したが、この年限りで引退した。引退時には西鉄球団から200万円の補償金が支払われた。

 事故発生時には、まだ25歳。中西太が衰え、豊田泰光が国鉄に移籍する中、次の中軸打者として期待されていた。関係者からは引退を惜しむ声が出た。

 引退後も西鉄OBとの交流は続き、2011年9月4日、ライオンズクラシックの最終日に、田辺義三は豊田泰光、中西太らと往時のユニフォームに身を包んでグランドに降り立ち、挨拶をした。

 試合前の練習での事故といえば、16日の西武-ソフトバンク戦の試合前に発生した、柳田悠岐の頭に打撃練習のボールが直撃した事故が記憶に新しい。

 プロの打球が飛び交うグラウンドは、常に事故が発生する危険性がある。球団、球場側には一層の安全管理を徹底してほしいものだ。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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