『水の匂いがするようだ』野崎歓著 井伏鱒二を読むよろこび

 井伏鱒二(1898〜1993年)の短編を久々に読み直したフランス文学者は、たちまちその文章世界に引き込まれ、やがて全集を読みふけるようになった。いまも色あせない井伏文学の魅力を伝えようと書き継いだ文章が優れた作家論に結実した。

 一般には「山椒魚」や「黒い雨」の作者として知られているが、ここにはさまざまな井伏鱒二が行き交う。希代の釣り好き、太宰治の恩師、翻訳の名手、旅の達人、従軍作家、骨董の蒐集家……それぞれが、この作家の文業とどう結びついているかが作品に即して丁寧に位置づけられる。

 小説やエッセーに登場する井伏は、ぐうたら学生だったり不運の釣り師だったりと達成の高揚や声高な主張とは無縁の、忍従とぼやきの人物だ。まるで成長しすぎて岩屋から出られなくなり、嘆き悲しむ山椒魚のように。

 そこに漂う一流のとぼけたユーモアと飄々とした諦念。しかし、その裏には強靭な倫理と美意識が隠されていると著者はいう。

「貧乏暮らしや軍国主義の圧迫に耐え、戦後の狂奔する社会の動きに流されることもなく、自らの作法を守り続けた井伏の仕事は、何と柔らかによくしなう抵抗の軌跡を描き出していることだろう」(あとがき)

 井伏が生涯を通じてこだわったのは「言葉」であり、著者もまずその筆調に魅せられた。文章を読むことの純粋な楽しみに浸らせてくれたという。その達文をふんだんに引用した本書もまた端正な筆致でつづられている。静かな陶酔のうちに読み終えた。

(集英社 2200円+税)=片岡義博

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