「戦争責任」いわれ辛い 側近記した昭和天皇の肉声 小林侍従日記特集

 昭和が幕を閉じてから約30年。昭和天皇の身の回りの世話をする侍従を長年務めた故小林忍氏の日記が見つかった。昭和天皇が、晩年まで戦争責任を巡り苦悩する姿や、動植物の研究者としての探究心や家族への温かなまなざしが克明に記されている。1974年から2000年までの27冊に、側近が見た昭和天皇の日常が凝縮している。貴重な昭和後半史として、一連の記事を新聞紙面だけでなく、ウェブ上でも共有したい。(共同通信・小林忍侍従日記取材班)

 日記には、昭和天皇の生の言葉が緻密な文字で書き留められている。

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。(中略)戦争責任のことをいわれるなど」。昭和天皇が1987年4月、小林氏に漏らした言葉だ。死去する約2年前のことだった。

 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が最晩年まで責任を気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。当時、宮内庁は公務負担の軽減を検討していた。この年の2月には弟の高松宮に先立たれた。

1975年10月、ホワイトハウスで行われた歓迎晩さん会で、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」と述べた昭和天皇。右はフォード米大統領=ワシントン(共同)

 日記には「天皇の涙」の記述も。昭和天皇は1975年9~10月に初の訪米を果たした。帰国後の記者会見で戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりません」と答え、責任逃れだと批判を浴びた。

 同年11月には入江相政侍従長から聞いた話として「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさって」いると記載。日記によると、初の米国訪問の成果に自信を失っていた天皇に、入江侍従長が「(米国での)素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚威的にもりあげた」と話したところ「涙をお流しになっておききになっていた」。人間としての天皇の苦悩や、側近との心の交流が率直に伝わる記述だ。

1985年4月10日 昭和天皇の視察先の下見をする小林忍氏(手前)=東京湾(遺族提供)

 小林氏は1923年、静岡県旧吉原市(現在の富士市)で生まれた。太平洋戦争中、旧制姫路高校の学生だった時に召集され、陸軍航空部隊で基地間の通信などを担当。戦後、人事院を経て、50歳の時に宮内庁へ。昭和天皇の侍従になった。

 89年1月の昭和天皇の死去後も現天皇陛下や香淳皇后の側近として仕え、平成への代替わりも見届けた。宮内庁で約27年過ごし、2001年に離任。06年7月に83歳で病死した。

1990年11月12日の「小林忍侍従日記」。天皇陛下の「即位礼正殿の儀」を巡り、「ちぐはぐな舞台装置」と記されている

 共同通信・小林忍侍従日記取材班は昨年、小林氏の遺族から日記27冊の他、関連する資料や写真を預かった。昭和史に詳しい作家の半藤一利氏、ノンフィクション作家の保阪正康氏と共に約1年かけて分析を進めてきた。細字の万年筆を使い、米粒大の小さな文字がびっしり書き込まれた日記はすべてA5サイズ。取材チームの中には老眼気味の記者もおり、日記をA3サイズに拡大コピーした上で、少しずつ読み進めていった。

 読み込みと平行し、日記に書かれた事実やその背景を、可能な限り、他の文献や資料で確認する「裏取り」の作業を進めた。参照したのは宮内庁が編纂した昭和天皇の活動記録「昭和天皇実録」、小林氏の先輩侍従だった卜部亮吾氏が残した「卜部亮吾侍従日記」、新聞各社の過去記事など。存命者は少ないが、小林氏を直接知る皇室関係者や、共同通信のOBで当時の宮内庁担当記者にも話を聞いた。

 日記には、業務で出席した宮中晩さん会のメニュー一覧や、皇室関係の新聞記事の切り抜きも。皇居でのさまざまな出来事に常にアンテナを張り巡らせていたのだろう。「メモ魔」できまじめな人柄が浮かぶ。保阪氏は「虚飾なく書いている」、半藤氏は「徹底的に実務的。(作家の故)松本清張なら『これは信頼できる』と言って喜びそうだ」と評した。

 終戦から73年。平成最後の夏が去った。来年5月には新天皇が即位し、皇室も新たな転機を迎える。日記の公開に当たり、遺族は「きちょうめんな性格の父が宮中の日々を詳しくつづった。昭和の歴史の一端を改めて人々に理解してもらえたら幸いです」とのコメントを寄せた。

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