大好きな街・横浜で選手生活に幕――周囲を温かく和ませるDeNA後藤の思い

今季限りでの現役引退を表明したDeNA・後藤武敏【写真:荒川祐史】

「バットを振ることが大好きだから今も苦ではない」

 ハマの男がバットを置くことを決意した。

 後藤武敏。

 プロで大きな結果は残してはいないが、大きな存在感があった。

 ゴメスと呼ばれるその男は、誰もが認める「いい人」だった。

 9月も中旬、記録に残るような酷暑は終焉を迎え、秋の気配を感じるようになった。すぐ真横には自衛隊駐留施設のあるベイスターズ球場。海からの風は心なしか肌寒く、数匹のトンボも飛び交っている。少し北に行った横浜スタジアムでは、CSシリーズ進出を目指し、1軍が連日、過酷なローラーコースターのような戦いを繰り広げている。

 この時期、聞こえてくるのは威勢のいい話ばかりではない。シーズン佳境を迎え、来季以降の進退も到る所で取り沙汰される。

 広島、阪神で愛された新井貴浩。横浜、巨人で活躍したBCリーグの村田修一、ソフトバンク(前身ダイエー含む)、巨人で投げた杉内俊哉の現役引退が発表された。そしてもう1人、西武、横浜でプレーした後藤武敏もバットを置こうとしていた。

 栃木で行われた村田の引退試合は多くのメディアが取り上げた。杉内は都内ホテルで盛大に記者会見を行った。後藤は、引退発表のリリースが流された後も、ファームで若手とともにいつもと変わらず汗を流し続けた。

「ファーム生活が長くなった頃から思い始めたのは、今が大事だからしっかりやろうということ。チャンスもいつか来る、と思い続けていた。それにチャンスをもらえなくても、野球を、バットを振ることが大好きだからね。あとは自分がそうだからかもしれないけど、周囲も自分を見ていると思うから。みんな頑張っているのに雰囲気は壊したくない。それに今やっていることは、今後の野球人生にもつながると思う。まぁ、そう思いたいですしね」

 ファームのデイゲームにあわせて朝早い時間から球場入り。ユニホームに着替えるとグラウンドへ飛び出していった。その姿は引退発表前と全く変わらなかった。

「もっと性格が荒々しかったら、と思ったことはあります」

 後藤はいわゆる「松坂世代」。松坂大輔(中日)、小池正晃(横浜ファームコーチ)らとともに98年、甲子園で春夏連覇を達成。法政大を経て、03年ドラフト自由枠で西武入団、12年に高校時代を過ごした横浜へ移籍した。

 大学2年春には3冠王を獲得。期待されて入ったプロの世界では、1年目の03年に11本、08年に12本と、2度2桁本塁打を放った。しかし、主に代打での出場となり、今季は引退発表まで1軍出場機会はなかった。

 実績的に飛び抜けたものはない。しかし、その存在感は周囲を常に和ませ、多くのファンを惹きつけてきた。練習に遅れて現れた後輩選手が、後藤に向かって「ごめーんっす」と言ったからついたと言われている「ゴメス」の愛称も理解できる。だ、生き馬の目を抜くようなサバイバルが必要なプロの世界。「いい人すぎる」性格は逆効果になるとも言われる。後藤のことを最もよく知る1人である小池コーチに聞いてみた。

「プロになる選手はみんなそうだと思うけど、そのあたりはしっかり分けているんじゃないかな……。僕自身はそうだった。試合中はファイティングスピリットというか、闘争心もあった。絶対に勝ちたい、と思ってやっていた。後藤も普段はああいうやつだけど、野球をやっていた時は同じだと思います」

 小池コーチのコメントを後藤にぶつけてみた。

「どうなんだろうなぁ……。試合の時は、性格そんなに良くなかったとは思いますよ。配球を読んだり、試合に勝つためにいろいろ考えた。その辺はしっかり切り替えられていたとは思います。でも、プロの世界はそんなに甘いものではない。ここで結果を出すことは能力や努力……、性格だけでなくいろいろなものがプラスにならないといけないですからね。今の結果が自分自身の実力だということ」

 でも、もっと性格が荒々しかったら、と思ったことはあります。若い選手を見ていても、イケイケでやっているような選手が結果を出している。僕はそれをやろうとしてもできないんですよね。元々の性格というか……。西武から横浜に移ってきた時も、何か変えようとは思ったんですが、結局は元に戻っていた。これが自分自身だから変えることはできなかった。

 気を遣うというわけではないけど、周りのことは考えるタイプ。それに誰もがフラットというか、みんなに対して同じように接してきたつもりですね。同じチームの一員だから、そこには年齢も何も関係ない。これは高校時代、いやもっと前からそうだったんじゃないかな。高校時代なんかはうちの仲間はそういう奴ばかりだったような気がする」

 勝負に対する執着心は強かった。それがないと当然、高校日本一になったりプロの世界に入ることなどできない。しかし、周囲を気にかけ、誰とでも分け隔てなく接する。この部分に関しては変えることができなかったのだ。

「自分に対してケジメをつけさせてくれるのが横浜なら、本当に納得できる」

 選手としての野球を終える。この選択ほど難しいものはないだろう。「引き際の美学」とよく耳にする。やれる限りはボロボロになって限界まで選手にこだわる。まだやれる、と思われているうちに潔く辞める。どちらを選ぶのも、その人自身の生き様である。

 MLBなどでよく目にするのは、自分の故郷や現役をスタートしたチームで最後、ユニホームを脱ぐ選手が多いこと。中には、キャンプやオープン戦で1日契約を結ぶ例もある。後藤も小池コーチも最後は横浜という土地にこだわった。小池コーチは自分自身、すでに限界を悟っており、後藤とチームの先輩である多村仁氏の2人に、最後は介錯人の役割を頼んだのは有名だ。

「これは強がりとかなんでもなくて、最後は横浜でユニフォームを脱ぐ気持ちでいた。それは移籍してきた時からそうだった気がする。やっぱり横浜の人間だし、ここで終わりたいというのはあった。それに自分に対してケジメをつけさせてくれるのが横浜なら、本当に納得できる。その時まで必死にしがみついて、ボロボロになるまでやろうと思っていた。今がその時だったということです」(後藤)

「やっぱり横浜という土地は特別なんですよね。僕も後藤と同じで横浜でユニホームを脱ぎたかった。僕の場合は2人に話す前に、そろそろだな、と思っていた。向上心というか、もっと上手くなれる、という気持ちが途切れたからだったかもしれない。自分ではなかなか言い出せないことなんですよ。言い出したくないしね」(小池コーチ)

 いろいろな形で選手生活の幕引きの仕方がある。特に、今年は新井のような明るさすら感じさせる形。そしてやりたくても、やれなかった村田の形など好対照である。そんな中で大好きな街で、自分の意思で選んだ後藤は、幸せだったのかもしれない。

 春先、ファーム戦で会った時とは、雰囲気がどこか穏やかに見えたのは気のせいか。

「引退することが決まって、性格がより丸くなったんですかね」

 笑顔で周囲を温かくする、いつものゴメスがいた。

「年齢も年齢ですし、毎年そういう選手が出てきますよね。特に、今年は自分と馴染みの深い選手や知名度のある選手が引退する。やっぱり寂しいですよね。でも(松坂)ダイスケのように現役を続ける選手もいる。我々のやってきたことや思いを、繋いでいってくれる若手選手もいる。コーチとしてそういう選手を出していくことが、これからの我々の使命だと思っています」(小池コーチ)

 別れと出会いの季節がやってくる。日常生活では春の訪れとともに来るものが、野球界ではまさにこれからだ。後藤も間もなく現役選手ではなくなる。しかし、小池コーチ同様、きっと後藤にしかできないやり方で、今後もハマの野球を輝かせてくれるだろう。(山岡則夫 / Norio Yamaoka)

山岡則夫 プロフィール
 1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿している。最新刊は「岩隈久志のピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選手たち」(株式会社舵社)。Ballpark Time!オフィシャルページにて取材日記を定期的に更新中。

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